松林寺 大邱・八公山(パルコンサン)にある名刹

2015年6月6日土曜日

防川市場ガイドブック(日本語版)

防川市場(バンチョン・シジャン)を知っていますか?

大邱の繁華街の中心地・半月堂(パンウォルドン)から徒歩15分、地下鉄2号線慶大病院駅3番出口から徒歩5分、東部教会の向かい側の一帯が防川市場で、東側には寿城橋があり、新川が流れています。
その新川の堤防沿いにある通りが金光石(キム・グァンソク)通り。若いアーティストたちが集まる一帯で、壁には金光石の歌をモチーフにした色とりどりの絵が描かれ、ギャラリー、カフェ、レストラン、アクセサリー・ショップ、雑貨店など、新しさと郷愁が入り混じった街として最近有名になり、週末は若者たち、家族連れでとてもにぎわっています。







金光石通りができて、防川市場がこのように活気を取り戻したのはつい最近のことです。衰退した市場を再活性化しようというプロジェクトが始まったのが2009年。
次第に金光石通りが有名になり、全国から観光客が押し寄せるようになったのは、特に去年(2014年)の春頃からだといいます。




 防川市場は第二次大戦後、日本や満洲から引き揚げてきた人々や、その後の朝鮮戦争の避難民たちが集まって形成されました。
最盛期の1960年代から1970年代には、米や餅、野菜などを扱う商店が千軒を超えるほどの賑わいでしたが、百貨店やショッピングモール、マートなど、商業形態の変化や市街地の近代化に伴い、在来市場はしだいに衰退しました。

周辺の再開発も進み、2010年頃には店舗数が60余りに減り、老朽化した空き家ばかりが目立つような状態でした。そこへ若く貧しいアーティスト、作家たちが住みつくようになり、手作りのギャラリーやカフェができ始めました。






画家たちは最初の頃は壁に思い思いの絵を描いていたのですが、大邱市、中区、市場の人々が再活性化プロジェクトを始めることになり、2009年から、堤防沿いの道に金光石通りを作ろうということになりました。
通りの入口にブロンズ像が立ち、画家たちは金光石の歌をモチーフに、300メートルに及ぶ壁に思い思いの絵を描き続けています。
街には金光石の歌が流れ、週末にはギターを抱えて金光石を歌う若者が現れるようになりました。




 金光石は1964年1月22日、防川市場のボンゲ電気店の末っ子として生まれた。市場のラジオから流れるポップスや歌謡曲を聞いて育ち、小学校入学前にソウルへ引っ越す。中学・高校時代からオーケストラに参加、バイオリン、オーボエ、フルートなどに親しむ。
1982年、明智大学に入学した金光石は、連合サークルに加入して、ギターを弾きながら歌を歌うようになる。1984年、学生運動指導者であり音楽家の金敏基のミュージカル・アルバム「ケットンイ」に参加する。

1985年1月、軍に入隊したが、同じく軍にいた長兄が疑惑の中で死亡し、そのために6ケ月という短い期間で除隊する。
復学後、自由と希望を歌うアルバム「歌を探す人々」に参加し、1987年には初めてのコンサートをひらく。
1988年に仲間たちとのバンド「動物園」を結成し、同名のアルバム「動物園」は多くのヒット曲を含む爆発的なセールスを記録した。



この成功をきっかけに金光石はソロ歌手への道を歩み出す。
伸びやかな声で歌われる、明晰で抒情をたたえた詞、わかりやすいメロディーは多くの人々の心をとらえた。
シンガー・ソングライターではあるが、オリジナル曲以外にも、他の作曲家や歌手の歌をカバー曲として歌うことも多く、それがまた多くのヒット曲を生み出した。

彼が活躍した時代は1984年から1996年の10年あまり、当時の韓国社会は全斗愌、慮泰愚、金泳三が大統領となり、軍事独裁政治から民主主義政権への移行期であった。民主化を求める学生や市民の運動が高まり、社会全体が激動の日々を迎えていた。

金光石の歌は民主化運動の時代に人々の胸に刻まれ、特に386(60年代に生まれ、80年代に学生生活を送り、現在30代の人々)と呼ばれた世代の思い出の歌となった。

多数のヒットアルバムを発表し、1000回を超えるコンサートをひらき人気絶頂だった1996年1月6日、金光石は突然自ら命を絶った。31歳であった。
その理由は何か、本当に自殺だったのか等、いまでも論議があり、同様に自殺した日本の尾崎豊に比べられることがあるが、金光石の歌はその後も幅広い年代層の韓国人に支持され、若い世代にもファン層は受け継がれていく。


映画「JSA」や「ラブストーリー」(原題は「クラシック」)などのOSTになったり、金光石の歌だけで構成されたミュージカルや、最近では元東方神起のジュンスが歌うなど、さまざまな形で彼の歌が流行し続けている。
2007年の調べでは金光石のアルバムは総計500万部を超える売れ行きが記録された。
また最近の韓国では映画「サニー」、ドラマ「応答せよ1994」、フォークグループ「セシボン」をはじめ、1980年代、1990年代を回顧し郷愁を呼び起こすコンテンツに人気がある。
さまざまなメディアでこのような特集が組まれ、激動の時代を懐かしく回想する風潮の中で、金光石の歌は繰り返し人々の耳に届き、甘い記憶や感傷とともに定着していった。

防川市場と金光石通りの成功は、そのような時代の流行とみごとに一致した結果と言えるだろう

(主なヒット曲)

일어나 (起き上がれ
너무 아픈 사랑은 사랑이 아니었음을(苦しすぎる愛は愛ではなかった
서른 즈음에 (三十の頃
바람이 불어오는 곳 (風が吹いてくる処
사랑했지만 (愛したけれど)
이등병의 편지 (二等兵の手紙
거리에서 (街に
잊어야 한다는 마음으로 (忘れなければならないという心で)
흐린 가을 하늘에 편지를 써 (秋の曇った空に手紙を書く
그날들 (その日
먼지가 되어 (塵になって)
사랑이라는 이유로 (愛という理由で
너에게 (君に
나의 노래 (僕の歌
슬픈 노래 (悲しい歌
말하지 못한 내 사랑 (言ってはならない僕の愛
그루터기 (切り株
기다려줘 (待っていて
광야에서 (広野で)
바람과 나 (風と
두 바퀴로 가는 자동차 (二輪で行く自転車
잊혀지는 것 (忘れられること)
내 사람이여 (僕の好きな人
어느 60대 노부부의 이야기 (ある60代の老夫婦の話
변해가네 (変わっていくね)




レストラン、カフェ、ギャラリー

ここでは、主な食堂、レストラン、カフェ、ギャラリーなどを紹介します。市場は在来の店が午前中から、食堂などは午後、あるいは夕方からの店が多く、いちばん賑わうのは週末(金、土、日)です。

食堂、レストラン

대한뉴스 大韓(テハン)ニュース 牛肉
가족 家族(カジョク)  豚足
투뿔 (トゥップル)   牛、豚、
뿅닭 (ピョンタク)   鶏
Chicken Daddy (チキンダディ)  フライドチキン
방천소갈비 (バンチョンソカルビ) 牛肉
미남돼지 (ミナムテジ) 豚肉
The Butcher's (ザ・ブッチャー) 牛肉、ユッケ
방천찌짐 (バンチョンチジム) チジミ専門店
Mr. 양꼬치 (ミスタ ヤンコッチ) 羊の串焼
로라방앗간 (ロラバンアッカン) トッポッキ
벽돌집 (ピョクドルチブ) 魚料理
만장식당 (マンジャンシクタン) ドジョウ
39 Thank U (サンキュー) トンカツ、スパゲティ
Chili boy (チリボーイ) チリ、サンドイッチ
일미순두부 (イルミスンドッブ) 豆腐チゲ
수박,설탕 (スバック、ソルタン)  居酒屋
방천국수 (バンチョンクッス) うどん、麺

カフェ

大邱は今、カフェ・ブーム。防川市場とそれを囲む大鳳洞(デポンドン)一帯には、工夫をこらし個性のあるカフェが十数軒あります。ゆっくりと歩いても30分くらいで一周できます。月曜日が休みの店が多いですが、平日は人が少なく、落ち着いた静かな時間を過ごすことができます。自家製のケーキやマカロンを置く店もあり、親しい友人と語らうには最適な場所です

마카롱 굽는 화가  (マカロンクップンファカ、マカロンを焼く画家)
바람이 불어오는 곳(パラミプロオヌンコッ、風が吹いてくる処)
커피명가 (コピミョンガ、珈琲名家)
모과 MOGA (モガ)
카페 마조 MAZZO (マッツオ)
SUNDANCE FARM  (サンダンスファーム)
W COLLECTION (ダブルコレクション)
웰메이드초코렛 (ウェルメイドチョコレート)
로스터리 Roaster Lee (ロースターリー)
르플랑 LE FLAN (ルフラン)
봉봉 Bon Bon (ボンボン)
루시도 Lucid (ルシード)
선낫곱쟁이 커피 (ソナッコプチェンイ)
카페 오늘은  (オヌルン)
CAFE AUTUMN (オータム)
Cafe 드보크 (トゥボク) 
ZART (ザート)

ギャラリー

아트스페이스 방천 (アートスペースバンチョン)
토마프로젝트 9-21 (TOMAプロジェクト9-21)
GALLERY CAFE B2
B커뮤니케이션 (Bコミュニケーション)





防川市場の人々 (インタビュー)


 Steven Dana  스티븐 타나
スティーブン・ダナ

平日は嶺南大学で美術を教え、週末は防川市場で「Chili boy」を友人と共同経営しています。チリ、ブリトー、サンドウィッチ、パイなどをテイクアウトできる小さな店。
チリの店はニューヨーク時代からやってみたかったんです。店の内装、カップやTシャツなど、全部私が絵を描きデザインしました。
2年前から、このあたりの手作りギャラリーに集まるアーティストたちと交流するようになりました。防川市場は古いものと新しいものが共存して、良いエネルギーを生み出しています。週末は各地から人が集まるけれどもっと国際的な雰囲気になってほしいですね。



 李東原 Lee Dong-Won   
이동원  イ・ドンウォン

5年前から、絵を描きながら、「マカロンを焼く画家」というカフェを経営しています。店の前の大きなマカロンが目印で、店内では十種類以上のマカロンをいつも作っています。画家として近所のギャラリーで個展を開くこともありますので、見に来てください。
防川市場にはアーティストが集まり、生きている実感が得られるような楽しい空間があちこちにありました。
最近は有名になり、これだけ人出が多くなると、フランチャイズの店が進出するなど商業主義が幅を利かすようになり、街からだんだんと昔の良さが失われつつあるのは残念ですね。


玉珍珠 Ok Jin-Ju
옥 진주 オク・チンジュ

金光石通りに面した「CAFE AUTUMN」という小さなギャラリー兼カフェを3年半前からやっています。
防川市場は静かで人が少なく、ものさびしいところに魅力がありました。自然に人が集まって、マッコリを飲んだりギターを弾いたりするような雰囲気が好きでした。ですから今よりも昔のほうが良かったと思います。

「AUTUMN」という店名は、「500日のサマー」という映画が好きでつけました。映画では主人公がサマーという女性との恋愛に敗れるのですが、最後にオータムという女性が現れる。夏が去り、秋が訪れた。そんな「次」のイメージが「AUTUMN」なのです。


李重憲 Lee Jung-Heon
이중헌 イ・ジュンホン

大邱MBCで放送プロデユ-サ-をしています。防川市場には番組の取材で昔から來ていますが、今はキギアッパ(妻子が海外に住み夫は韓国で働くこと)なので、週末は退屈だから友人の店を手伝っています。
このように賑わうのはいいことだとは思いますが、人が集まるのは週末だけ、家賃は高騰して若いアーチストは離れていき、在来市場は相変わらず活気がない。このまま商業主義が肥大して東城路のようになるのはつまらないと思います。
金光石通りでブームが盛り上がったとしても、それだけではいつか下り坂になってしまう。第二の企画、アイデアが必要になってくるでしょう。



劉志淑 Yoo Ji-Suk
유지숙 (Sophia)  ユ・ジスク

6年前から「アートスペースバンチョン」の代表として、写真家の夫(パク・チェグン「ギャラリーTOMA」代表)と共に、アーティスト、作家たちの企画や展示会、コンサート、パーティなどに自由な空間を提供して、彼らの活動の支援をしています。
6年前には、暗く沈滞していた通りが今のように賑わう町になるなんて想像もできませんでした。
他に「TOMAプロジェクト9-21」も運営し、多くの若い芸術家たちを応援できたことを嬉しく思っています。防川市場を訪ねてくる人たちの案内役としても忙しいんですよ。

ただ最近は家賃がとても高くなり、「ギャラリーTOMA」と「アートスペースバンチョン」は手放しました。アーティストたちが家賃の高騰でここを離れていくのはとても残念です。
文化と商業が適切に共存できる町になれたら良いのですが。

2015年4月29日水曜日

水崎林太郎

2015年4月26日(日)
 
大邸は春が短く、すぐ夏になるといわれる。この日は大邸ハルの踏査会。F先生が主催する、水崎林太郎と沙也加の史蹟巡りの一日。





水崎林太郎(1868~1939)の存在、業績は、台湾の八田與一に良く似ている。(八田ほどスケールは大きくないかもしれないが) 
旱魃と洪水に悩まされた荒地を整備し灌漑用水を供給する水利組合を作り、10年の歳月をかけて、1927年(昭和2年)に寿城池(スソンモッ)を築造し数百町歩の田畑を潤した。
戦後も水崎と懇意だった韓国人が自費で墓所を守り続けた。地域の有志で韓日親善交流会ができ、2000年からは寿城区庁に要請して4月初めに追悼式を行っている。


寿城池は一周すると約30分。周囲は住宅地となり、遊園地ができて、家族連れでにぎわう。用水池だった点も似ているので、東京の石神井池を思い出す。
以下は、沈寿官氏のブログを引用する。

私は除彰教先生が水崎林太郎氏の墓前でこうつぶやかれた事を覚えている。
「韓国人に墓の掃除を頼むと、韓国人の墓なら3万ウォンでやるが、日本人の墓なら5万ウォン貰わなければやらない、と言われるのだよ。」
除先生はその度に無理解な韓国人に水崎林太郎氏の話を繰り返されるのだそうだ。その除先生が、今春、他界された。
先生がおっしゃった言葉で決して忘れられない言葉がある。
「日帝支配36年は韓国にとって暗黒の時代であったと言われる。確かにそうであった。しかし、その中に清流の様な日本人が居た事も私達は忘れてはいけない。それまで黒く塗りつぶす事は、私達韓国人にとっても不幸な事なのだ」と。
本当に大切な言葉だった。心から冥福を御祈りすると共に、また一つ大切な日韓のかけ橋が失われた事を惜しみたい。

「直心直伝「大邱の思い出」より

2015年4月24日金曜日

晋州城

2015年4月18日(土)

晋州(チンジュ)、東邦観光ホテル泊。晋州は南江(ナムガン)が中央を流れ、川辺に面した東邦ホテルは観光に最適な位置にある。


南江は、静かで心が落ち着くような何かを感じさせる。気持ちのいい風景だ。
本貫である河東(ハドン)に向かう鄭一族は、朝9時にバスで出発した。
公園になっている晋州城をゆっくりと歩く。



1592年、1593年、文禄・慶長の役(壬辰倭乱)の三大戦闘の一つが晋州城の攻防。文禄元年10月の第1次攻防戦、日本の指揮は細川忠興。文禄2年6月の第2次、日本は宇喜多秀家。
10万人を超える日本軍に蹂躙され、7万人が殉死したとあるが、実際には4万人対2万人くらいだったようだ。

楼閣は高名な矗石楼(チョッソンヌ) 、朝鮮戦争で焼失したあとに再建した。
祝勝の宴で日本の武将を抱きかかえて南江へ入水したという妓生・論介(ノンゲ)を祀る義妓祠(ウィギサ)。四角い岩は義岩(ウィアム)と呼ばれる。


国立晋州博物館は1984年に開館、1998年からは壬辰倭乱の歴史を展示テーマに特化したという。
これはおそらく1990年代以降の韓国の風潮を反映している。晋州第一の観光地が壬辰倭乱の史跡なのだから、ナショナリズムを前面に打ち出してきたのであろう。ゆとりのある広い空間を生かした良い建物だが、展示品は今一つ物足りない。
しかし、この晋州城の公園、史跡、博物館はとても美しく整備されており、全体的にかなりレベルが高いと思った。春の季節をひととき楽しむ也。
人口35万の晋州の街にはあまりゴミが落ちていないし、穏やかさと清潔感を感じた。長い歴史がその背景にあるからだろうか。


晋州ビビンバはユッケが基本で、この町に似た穏やかな印象。

2015年4月20日月曜日

濫溪書院

墓参りの後は咸陽郡(ハミャングン) 水東面(スドンミョン) 院坪里(ウォンピョンニ)にある濫溪書院(ナムゲソウォン)へ。河東鄭氏の儒学者、鄭汝昌(정여창 チョン・ヨチャン 1450~1504)を祀る書院である。
先日、道東書院(金宏弻)に行ったばかりなので、朝鮮五賢所縁の書院を続けて訪問したことになる。


この人は鄭汝昌から14代目という解説員で、一行の鄭氏とはもちろん遠い親戚である。
次はお墓と、古宅へ。


 池谷面(チゴンミョン) 介坪里(ケピョンニ) の韓屋村の中にある鄭汝昌古宅。
11の建物が16~17世紀に建てられ、1984年重要民俗文化財第186号に指定。
家の門には由緒ある両班の名家であることを示す5枚の赤い扁額がある。規模が大きく、保存も行き届いた建物であった。
鄭汝昌も金宏弻も、燕山君の治世に起こった戊午士禍(ぼごしか)で配流となり、不遇のうちに亡くなったが、死後名誉回復が行われた。歴史を覗くと、朝鮮時代の政争の禍々しさに驚かされる。
今ソウルの青瓦台で起きている政争も、長い歴史の中の一コマとなるのだろうか。
こちらの鄭一族は、ふだん小生が目にしている大邱の韓国人とは人種が違うような、上品な物静かな人たちであった。