松林寺 大邱・八公山(パルコンサン)にある名刹

2016年8月18日木曜日

釜山行

この夏観客数1100万人を突破した映画「釜山行」(プサンヘン)を観る。入場料はプライム価格とかで高く、9000ウォン(学生割引で7000ウォン)。


徹底した娯楽作品で、ソウルから釜山へ走るKTXの列車内だけが舞台のゾンビ映画。人物配置やら、現代韓国の世相を風刺するなどの工夫はされているが、とにかく主人公たちとゾンビたちとの死闘の連続。いったいどんな展開になるのか見通せずハラハラドキドキ、要はそれだけの、暇つぶしにはぴったりの映画だった。


主演はコン・ユ。コン・ユが好きな韓国人女性は多いネ。小生にはさっぱりわかりません・・・

助演にチョン・ユミ、マ・ドンソク。
マ・ドンソクは相変わらず腕っぷしに物を言わせる役で、なかなか味がある。

とにかくゾンビに食われると忽ちゾンビに早変わりする。その早さ、せっかちさが韓国らしくて、映画のスピード感を出している。

2016年8月12日金曜日

仁川上陸作戦

7月27日公開以来、観客数550万人を突破した「仁川上陸作戦」を観る。




イ・ジョンジェ = 仁川上陸作戦成功のために諜報活動を遂行する海軍諜報部隊大尉

イ・ボムス  = 仁川を掌握する北朝鮮軍司令官

リーアム・ニーソン = ダグラス・マッカーサー将軍

製作費は約14億円。リーアム・ニーソンの出演料は2億円だという。観客数700万人が目標で、全米公開も間近となり、順調な興行成績を収めている。


イ・ジョンジェたちは「X-ray」作戦という名の諜報部隊で、仁川を占領している北朝鮮軍に合流する。もちろん全員が北朝鮮軍の軍服を着ており、北朝鮮訛りで話すので、最初のうちは怪しまれない。
しかし、イ・ボムス扮する司令官が次第に疑問を抱く・・・という展開である。
イ・ジョンジェが格好いいのは相変わらずだが、イ・ボムスが強烈なキャラクターで迫力がある。このために7キロも増量したとかで、傲慢狡猾で猜疑心に満ち、腕っ節の強い司令官を怪演。

結論から言うと、諜報部隊の献身と犠牲により、仁川上陸作戦は奇襲に成功するという流れは誰にでも予想できる。そのために仁川上陸のクライマックスまでにいかに盛り上げるか、という単純な映画である。仁川上陸そのものはCG映像が多いし、上陸後の戦闘も描かれない。

試写会の段階では「時代遅れの反共映画」などという酷評も見られたそうだが、封切りされると大ヒット。若者よりも年配者の観客が多いらしい。

この映画は一部で「クッポン」という評価を受けている。国家(クッカ)と覚せい剤のヒロポンの合成語で、クッポンとは、民族主義やナショナリズムを過剰に煽り立てる「愛国マーケティング」を揶揄したり卑下して言うことらしい。

「国際市場で会いましょう」(原題「国際市場」) →朝鮮戦争
「延坪海戦」                      →北朝鮮との海戦
「バトルオーシャン 海上決戦」(原題「鳴梁」) →李舜臣
「鬼郷」                         →慰安婦
「暗殺」                         →独立運動

などの作品が過去の記事で「クッポン」と言われたそうだが、そんなふうに考えると「徳恵翁主」だってそうである。日帝の支配を憎むあまり、李朝王族までが抗日独立運動に加担するというトンデモ・ストーリーなんだもの。

近代史、現代史に映画の題材を求めれば、製作者・監督は国民の感情に強く訴えることを狙い、あざとい演出や歴史歪曲が当たり前のようになってしまう。
韓国映画は、とにかく刺激的で、ダイナミックならそれで良しとするようなところがある。

「仁川上陸作戦」の場合は、敵は北朝鮮人民軍であり、共産主義であるとはっきりしていて、そこに「民族同胞が殺しあう悲劇」などといった観点はほとんど入らない。そのほうが明快な勧善懲悪の娯楽映画に徹することができるからだ。
北朝鮮にシンパシーを持つ人、現政府に批判的な人たちは、それを批判して「クッポン」という言葉を使うのだろう。
リーアム・ニーソンのマッカーサーは、確かに適役なんだけど、従来のイメージ通りのマッカーサーでしかない、という批評も出ていましたね。

徳恵翁主

2016年8月9日(火)

猛暑。 慶山ロッテシネマで、「徳恵翁主」(トッケ・オンジュ 덕혜옹주) を観る。



英題は「The Last Princess」。今年の夏は観客数1000万人を突破した「釜山行」をはじめ、話題作が多い。ソン・イェジン主演のこの歴史(?)映画も、公開して1週間で観客数200万人を越え、夏休みの人気映画となっているようだ。

徳恵翁主(トッケ・オンジュ:1912.5.25~1989.4.21)。徳恵姫(とくえひめ)、李徳恵(イ・トッケ)、宗徳恵(そう・とくえ)、梁徳恵(ヤン・トッケ)とも呼ばれた。国王・高宗(コジョン:1852~1919)が還暦を迎えた年に、徳寿宮の厨房で働く下級の女官梁春基(ヤン・チュンギ)との間に生まれた。朝鮮では正室の王女を公主(コンジュ)といい、側室所生の王女を翁主(オンジュ)という。
高宗は第38代朝鮮国王(在位1863~1897)であり、清の冊封から独立した後の大韓帝国初代皇帝(在位1897~1907)である。1907年のハーグ密使事件で退位させられ皇太子の純宗(スンジョン)に譲位し、韓国併合(1910)後は帝国日本の王族となって徳寿宮李太王殿下と称した。
亡国の朝鮮王朝最後の王女である徳恵翁主は、7歳で父を亡くし、京城の日の出小学校を経て、1925年には東京の女子学習院に留学させられた。日本では周囲に打ち解けず内向的な面を見せていたが、1929年5月に母の梁春基を乳がんで失う。以後は内向的な性格に拍車がかかり不登校となり、夜は重度の不眠症で突然屋外に駆け出すなどの奇行が現われ、医師に「早発性痴呆症」(統合失調症)と診断された。
1931年に旧対馬藩主だった宗伯爵家の当主・宗武志(そう・たけゆき:1908~1985)と結婚する。
当時病気は小康状態であったたようだが、同年対馬を訪問した際には関係者の前で奇声を発して笑い転げるという挙動を見せた。1932年8月に長女正恵が生まれる。1938年頃にはかなり状態は悪かったようで、娘の相手も家人に任せていたという。1946年頃に松沢病院に入院。
1950年に韓国人新聞記者金乙漢が松沢病院に徳恵を訪問し、その現状を記事で発表。その影響もあったのか、以降宗武志と徳恵の後見者に当たる李垠(イ・ウン)夫婦との話し合いにより、1955年に協議離婚。北原白秋門下の詩人でもある武志は悲痛な別れを詩に綴った。
これと前後する時期、早稲田大学に進学した娘の正恵は在学中に知り合った鈴木昇を婿に取り、宗家を継ぐ予定であった。中学教師である昇との新婚生活を大田区で始めるが、正恵は重いうつ病となり、1956年に自殺を予告する手紙を遺して中央アルプス方面に失踪する。正恵の行方はついに不明のままで、昇との縁組は解消され、法的な死を宣告された。
徳恵翁主の帰国は、李承晩時代には受け入れられず、ようやく朴正煕時代となった1962年、帰国して韓国籍に戻ることができた。異母兄である李垠の妻である李方子(イ・パンジャ:元梨本宮方子内親王)とともに、ソウル昌徳宮楽善斎で暮らし、長らくの病臥の果てに1989年4月21日永眠。亡骸は金谷里に埋葬された。
以上が徳恵翁主という薄幸な王女の、ほぼ客観的な紹介である。梨本宮方子と結婚した李垠のほうが有名だが、異母妹の彼女のことを知る人は日韓でも少ないだろう。
これは1931年、宗武志と対馬を訪問した時の写真。
映画では、冒頭にフィクションが含まれていることを告知する。
しかしソン・イェジンが「初めて歴史に実在の人物を演じた」と語ったのは、植民地朝鮮に生まれた王女が親日派の策略に乗せられて憎き日本で不本意な暮らしを送るが、ついには独立運動に加担して上海への亡命を図るという「歴史歪曲」活劇であった。


原作は2010年にベストセラーとなった「徳恵翁主ー朝鮮王朝最後の皇女」で、權はこの映画の脚本にも参加している。この小説は未読だが、書評を読むと、この映画の問題点、出発点がかなり含まれているようだ。日帝によって強制的に日本へ留学させられ、日本人と結婚させられて、孤独の中で精神に異常をきたしていった徳恵。哀れな皇女を助け出そうとする独立運動家たち。悪辣な親日派と暴虐な日本の官憲。日帝時代を描いた勧善懲悪劇の典型だという。

徳恵翁主の幼馴染で、昼は日本陸軍少尉、夜は独立運動の闘士(!)というキム・チャンハン役にパク・ヘイル(戦後新聞記者となり、徳恵を助け出す)。
李方子役に戸田菜穂、宗武志役にキム・チェウク(日本にファンクラブもある人気俳優らしい)。
徳恵を苦しめる親日派ハン・テクスは、ユン・チェムン(憎らしいほどの悪役ぶり)。
英親王を助ける李鍝(イ・ウ)殿下役には、コ・ス。

徳恵翁主を救出し、英親王・李垠(イ・ウン)殿下を説得して、共に上海亡命を図ろうとする独立運動家たちが日本軍と激しい銃撃戦を繰り広げるという荒唐無稽な活劇に口をあんぐり。
命からがら脱出し立て籠った独立軍のアジトでも、日本軍の奇襲を受けて蜂の巣のごとく銃弾を浴びるが、最後には仕掛けた爆弾で大逆襲するなど、昨年見た「暗殺」を思い出させるような、派手な展開のあげくに、結局全ては挫折する。

敗戦後、韓国に戻れず、精神病院に幽閉され、徳恵は人々から忘れられてゆく。キム・チャンハンが朴大統領に直訴して、37年ぶりに帰国を果たすと、少女の頃宮廷で別れを惜しんだ老いた女官たちが涙で王女の帰還を迎える、というエンディング。
部分部分には史実のエピソードをちりばめ、数奇な運命にもてあそばれた朝鮮最後の王女の悲しい人生。帰国した時のシーンでは映画館内にもすすり泣きの声が・・・。

李王家(後の赤坂プリンスホテル旧館)での暮らしぶりなどは、北九州市戸畑区にある雰囲気の似た洋館を使い、一か月近くスタッフや俳優たちが滞在して撮影したという。地元の映画関係者がロケ地として誘致したそうだが、出来上がった映画の「反日」ぶりを観たら、北九州の人たちはどう思うことだろう。
「八月のクリスマス」「春の日は過ぎゆく」「四月の雪」「危険な関係」など、繊細な感覚を打ち出したヒット作で知られるホ・ジノ監督だが、この映画は、ソン・イェジン初の歴史実録映画+日帝下の独立闘争アクション活劇(あるいは反日ファンタジー)という中途半端なものになってしまった。