松林寺 大邱・八公山(パルコンサン)にある名刹

2015年4月29日水曜日

水崎林太郎

2015年4月26日(日)
 
大邸は春が短く、すぐ夏になるといわれる。この日は大邸ハルの踏査会。F先生が主催する、水崎林太郎と沙也加の史蹟巡りの一日。





水崎林太郎(1868~1939)の存在、業績は、台湾の八田與一に良く似ている。(八田ほどスケールは大きくないかもしれないが) 
旱魃と洪水に悩まされた荒地を整備し灌漑用水を供給する水利組合を作り、10年の歳月をかけて、1927年(昭和2年)に寿城池(スソンモッ)を築造し数百町歩の田畑を潤した。
戦後も水崎と懇意だった韓国人が自費で墓所を守り続けた。地域の有志で韓日親善交流会ができ、2000年からは寿城区庁に要請して4月初めに追悼式を行っている。


寿城池は一周すると約30分。周囲は住宅地となり、遊園地ができて、家族連れでにぎわう。用水池だった点も似ているので、東京の石神井池を思い出す。
以下は、沈寿官氏のブログを引用する。

私は除彰教先生が水崎林太郎氏の墓前でこうつぶやかれた事を覚えている。
「韓国人に墓の掃除を頼むと、韓国人の墓なら3万ウォンでやるが、日本人の墓なら5万ウォン貰わなければやらない、と言われるのだよ。」
除先生はその度に無理解な韓国人に水崎林太郎氏の話を繰り返されるのだそうだ。その除先生が、今春、他界された。
先生がおっしゃった言葉で決して忘れられない言葉がある。
「日帝支配36年は韓国にとって暗黒の時代であったと言われる。確かにそうであった。しかし、その中に清流の様な日本人が居た事も私達は忘れてはいけない。それまで黒く塗りつぶす事は、私達韓国人にとっても不幸な事なのだ」と。
本当に大切な言葉だった。心から冥福を御祈りすると共に、また一つ大切な日韓のかけ橋が失われた事を惜しみたい。

「直心直伝「大邱の思い出」より

2015年4月24日金曜日

晋州城

2015年4月18日(土)

晋州(チンジュ)、東邦観光ホテル泊。晋州は南江(ナムガン)が中央を流れ、川辺に面した東邦ホテルは観光に最適な位置にある。


南江は、静かで心が落ち着くような何かを感じさせる。気持ちのいい風景だ。
本貫である河東(ハドン)に向かう鄭一族は、朝9時にバスで出発した。
公園になっている晋州城をゆっくりと歩く。



1592年、1593年、文禄・慶長の役(壬辰倭乱)の三大戦闘の一つが晋州城の攻防。文禄元年10月の第1次攻防戦、日本の指揮は細川忠興。文禄2年6月の第2次、日本は宇喜多秀家。
10万人を超える日本軍に蹂躙され、7万人が殉死したとあるが、実際には4万人対2万人くらいだったようだ。

楼閣は高名な矗石楼(チョッソンヌ) 、朝鮮戦争で焼失したあとに再建した。
祝勝の宴で日本の武将を抱きかかえて南江へ入水したという妓生・論介(ノンゲ)を祀る義妓祠(ウィギサ)。四角い岩は義岩(ウィアム)と呼ばれる。


国立晋州博物館は1984年に開館、1998年からは壬辰倭乱の歴史を展示テーマに特化したという。
これはおそらく1990年代以降の韓国の風潮を反映している。晋州第一の観光地が壬辰倭乱の史跡なのだから、ナショナリズムを前面に打ち出してきたのであろう。ゆとりのある広い空間を生かした良い建物だが、展示品は今一つ物足りない。
しかし、この晋州城の公園、史跡、博物館はとても美しく整備されており、全体的にかなりレベルが高いと思った。春の季節をひととき楽しむ也。
人口35万の晋州の街にはあまりゴミが落ちていないし、穏やかさと清潔感を感じた。長い歴史がその背景にあるからだろうか。


晋州ビビンバはユッケが基本で、この町に似た穏やかな印象。

2015年4月20日月曜日

濫溪書院

墓参りの後は咸陽郡(ハミャングン) 水東面(スドンミョン) 院坪里(ウォンピョンニ)にある濫溪書院(ナムゲソウォン)へ。河東鄭氏の儒学者、鄭汝昌(정여창 チョン・ヨチャン 1450~1504)を祀る書院である。
先日、道東書院(金宏弻)に行ったばかりなので、朝鮮五賢所縁の書院を続けて訪問したことになる。


この人は鄭汝昌から14代目という解説員で、一行の鄭氏とはもちろん遠い親戚である。
次はお墓と、古宅へ。


 池谷面(チゴンミョン) 介坪里(ケピョンニ) の韓屋村の中にある鄭汝昌古宅。
11の建物が16~17世紀に建てられ、1984年重要民俗文化財第186号に指定。
家の門には由緒ある両班の名家であることを示す5枚の赤い扁額がある。規模が大きく、保存も行き届いた建物であった。
鄭汝昌も金宏弻も、燕山君の治世に起こった戊午士禍(ぼごしか)で配流となり、不遇のうちに亡くなったが、死後名誉回復が行われた。歴史を覗くと、朝鮮時代の政争の禍々しさに驚かされる。
今ソウルの青瓦台で起きている政争も、長い歴史の中の一コマとなるのだろうか。
こちらの鄭一族は、ふだん小生が目にしている大邱の韓国人とは人種が違うような、上品な物静かな人たちであった。

2015年4月19日日曜日

河東鄭氏の墓参

2015年4月17日(金)

昨日はセウォル号事故から1周年だが、追悼行事は大荒れ。自殺した慶南企業会長のメモから発覚した朴政権首脳への献金疑惑。逃れるように、朴大統領は南米歴訪に旅立った。海外にいるときが彼女は一番幸せかもしれない。

朝5時半、始発の地下鉄に乗り、聖堂池(ソンダンモッ)駅で降り、西部バスターミナルへ。7時14分発、咸陽(ハミャン)行きのバスに乗り込む。
うつらうつらしながら約2時間、慶尚南道咸陽着。
市外バスターミナルの周辺にはコーヒーショップが見当たらない。タクシーがたくさん駐車しているが、人は少なく、運転手たちは時間を持て余しているようだ。
この町は全羅道との県境に近く、智異山国立公園の入口なので、観光客向けのタクシーが多いのだろう。春香伝の南原(ナムウォン)にも近い。
町を歩いてみると、中心部にようやくパリ・バケットとミスター・ドーナッツがあるが、入って時間をつぶす気にはなれない。
生草(センチョ)に行くにはどのバスに乗ったらいいのかと人に聞くと、さっき降りた市外バスターミナルから晋州(チンジュ)行きに乗れと言われる。
10時過ぎに咸陽を出て、生草に着いたのは10時半くらいだったか。待ち合わせ時間にはまだ早すぎるけれど…。


生草(センチョ)はもっと田舎の小さな町だ。お茶を飲んで時間をつぶすところは、皆無に近い。山の上の公園は芝桜がきれいだが、ちょっとあそこまでは遠い。
生草農協の前で、ソウルからのバスを待ってぼーっとする。町の人たちはお互いが皆顔見知りなのだろう、のんびりと挨拶を交わしている。
手持無沙汰で路上に座っていると、洗濯屋のおかみさんが、ちょっとコーヒーでも飲んでいきなさい、と声をかけてくれた。
有難く、中に入って、コーヒーや果物、梨などをご馳走になる。その間、近所のアジュンマ、ハルモニたちが、出たり入ったり、世間話に花が咲く。何を話しているのか聞き取りは難しいけれど、小生も適当に相槌を打ったり、自分の話をしたり、田舎の人の親切に馴染んでいるうちに、12時近くになって、ようやくソウルからの赤い中型バスが到着した。


今日は、友人のS君(日本人)の妻Kさん(韓国人)の一族、河東鄭氏(ハドン・チョンシ)のお墓詣りに参加するのだ。
天気は良く、春の穏やかな1日。総勢20名近くの一行は、生草農協で酒や果物などを買いこみ、近くの山に向かう。13年間続いている春の墓参りだという。
東京から来た人が6、7人。Kさんから1人1人紹介されたのだが、おじさんやらおばさんやら従妹やら、姉妹やら、もちろん覚えきれない。日本人は小生も含めて4人。韓国語と日本語が半々くらいの割で飛び交う。
土饅頭に酒をふりかけたり、果物やお菓子を供えるが、お花はない。男、女の順に三拝する。Kさんはクリスチャンなので三拝はしなかった。


この山全体が一族の所有だというから驚く。まっさきにお参りしたのは鄭氏ではなく柳氏の墓。
柳氏というのはハルモニの墓で、彼女が嫁入りしてきた時に、この山を持参したのだという。
広大な山の中に、鄭氏一族の墓が点在していて、地元のお爺さんが墓守を依頼されている。
一族の多くはソウルや東京に住んでいるので、ここは簡単に来れる場所ではない。普段の草刈りや道の整備などは墓守のお爺さんがしているのだそうだ。


三拝したあとは、日本酒やらマッコリやら、紙コップでちょこちょこ飲まされる。それからまた次のお墓に移動したりするので、汗もかき、だんだんときつくなってきた。
Kさんの父上の墓をふくめ、七つか八つのお墓をお参りしただろうか、和気あいあいとした雰囲気のうちに、一行は安堵した表情でバスに乗り込む。
三拝しているうちにその人の思い出が蘇り、涙がこみあげてくるのだそうだ。
ここは一族だけの山なので、話し合って、思い思いのところにお墓が作れる。
「私はこのへんがいいかな」とか、「ここは景色がいいね」とか、将来はこの山に帰ってきたいという人が多いようだ。ただし年配の人だけの話。
日本に住んでいる人や、韓国語を話せない3世、Kさんのようなキリスト教徒などもおり、この山と墓が次世代まで順調に継続されていくかどうかは、なかなか難しそうな感じであった。