松林寺 大邱・八公山(パルコンサン)にある名刹

2010年12月31日金曜日

2010年12月31日(金)

 昨夜は上環11時59分発のフェリーで帰還。ホテル着は午前2時近くだったろうか。
 今日はもっぱらホテルの部屋でこのブログを書く。朝ご飯はセドナ広場の近くを歩きながら入った店で猪扒飯(ポークチョップ・ライス)。素朴で美味い。坂の街を歩くとリスボンの街を歩いているような錯覚にとらわれる(行ったことはないけど)。AさんもT子さんもリスボンには行ったことがあり、その2人がそういうのだから、ポルトガル人は同じような街を作るということらしい。インドのゴアも、マラッカも、同じような街の感じだそうだ。
 午後、2度目の散歩。観光客がうじゃうじゃ歩いている。観光地はどこも竹下通り(この喩えはもう古いか?)状態。聖ポール天主堂跡などを見て、午後4時、福隆新街にある「祥記麵食専家」に。昨夜会った文さんのお勧めの店で、昼頃覗いた時は満席だった。蝦子𢭐麵を頼むが、細い麵は「黄枝記」と一緒で小ぶりなヴォリュームも似たようなもの。ゆでた麵の汁気を切ってぱさぱさに近くしたものに海老の粉を振りかけただけで、ちょっとがっかりする。頼んだ青島ビールが大瓶だったので、他の客が頼んでいた炸雲呑(揚げワンタン)を追加で注文する。これは実にサクサクとしてパリッとしてビールに素晴らしく合う。多すぎるかな、と思ったが、食べ出したら止まらなくなった。
 2010年最後の日は、雲呑で締めくくりだった。ここは韓国ではないのでTVがつまらない。韓国のテレビはいつも歌謡大賞だの芸能大賞だの、大晦日はどのチャンネルを見ても人気歌手や人気俳優の生の姿が楽しめるのだが…。
                 聖ポール天主堂跡
               蝦子𢭐麵(手前)と炸雲呑

裕記の鵞鳥

 ペニンシュラのロビーでTさんと会う。Tさんは小生のためにケーキまで持参してくれた。十数年ぶりのペニンシュラだが、バブリーで落ち着かない。Tさんによると、ロビーにあったソファーなどすべて撤去して両側を喫茶室にした由。どちらの喫茶コーナーも満員だが、ゆったりとしたスペースがなくなり、待ち合わせに来た人は立っているしかない。
 Aさん到着、T子さんがなかなか回復しないので上環までタクシーで行きヘリコプターでマカオに帰らせたと聞き、仰天。小生の宴会におつきあいいただくために、ご心配と散財をおかけしてしまい大変申し訳なし。タクシーで深井に。Tさんによればかつて深井にはサン・ミゲル(フィリピンのビール)の工場があり、ホップ等の余り物を餌にした鵞鳥がとても美味になり、「裕記」が鵞鳥料理屋を始めて大当たり。いつしか香港一の鵞鳥専門店街になったとのこと。
          鵞鳥焼き。ぱりぱり、ジューシー、香りも食感も絶品
 小生のための宴会は、Aさん、Tさん、文さん、朱さん、岑さん、5人が集ってくれた。文さん、朱さん、岑さんはTさんの友人で香港人の競馬記者。感じの良い若者ばかりであった。
 フォアグラ、砂肝、塩玉子と西洋菜のスープ、豆腐料理、イカの麻辣炒め、肝・臓物と赤・緑ピーマンの炒め、葱と生姜で炒めたフィリピンの大ぶりの蟹、タロイモと家鴨の干物のシチューなどなど、ヴァラエティ豊かなメニュー。酒は剣南春、モエドシャンドン、ヴーヴクリコ、ブルーガール(ビール)。
 上の写真が肝・臓物と赤・緑ピーマンの炒め、下はTさんが香港マキシムという店で買ってきてくれたショートケーキ。「ハッピーバースデイ」の歌声、乾杯のかけ声、拍手、有り難く、幸福な誕生日を迎えることができた。
                 皆さんに感謝。

2010年12月30日(木) 誕生日

 58歳の誕生日也。50歳の誕生日を故郷・北海道の居酒屋で祝ってもらって以来、8年連続、海外で誕生日の前後を過ごしてきた。台北、ソウル、大邱、釜山、そして今年は香港で。
 今日から3泊、ホテル・ギア(東望洋酒店)に泊まり、元旦はマカオで迎えることにした。Aさん夫妻にホテルまで来てもらい、タクシーで孫逸仙大馬路の「佛笑楼2」へ。お洒落なレストランであった。アフリカン・チキン、鰯の塩焼き、小鳩のグリル。広東風に焼いた鳩は薫り高く繊細で美味也。アフリカン・チキンなるものは、なるほどこんなものか…という味であった。ソースの複雑なスパイスにポルトガル海外進出の歴史が感じられるのだろうか?

                  アフリカン・チキン

 15時発のフェリーで九龍に向かう。揺れのためか、メールをしていたら汗が出て気持ちが悪くなる。香港入境のカードを書くのも辛いほど。T子さんも辛そうにしていた。やっと香港に着いたもののT子さんは回復せず、港にAさん夫妻を残して小生だけ街へ出る。待ち合わせのペニンシュラ・ホテルまでゆっくり歩いて15分ほどなのだが、香港の人いきれ、エネルギーに圧倒されながら、人混みをかきわけて歩く。マカオが素朴で田舎に感じるほどの大都会のパワーにどぎまぎする。
 両替をしたり、ワインや白酒を買って、ペニンシュラのロビーに。ここに立つのは十数年ぶりだ。故池宮彰一郎さんと北京、武漢、南京、広州など、10日間くらい中国取材旅行をして、最後にたどり着いた香港で、池宮さんが「ペニンシュラのロビーにある喫茶室でチーズケーキを食べたい」と言い出した。香港から成田に向かう合間のわずか数時間。初めての香港の思い出は、そのときの濃厚な大ぶりのチーズケーキの味だけである。
 池宮さんが亡くなって5年くらいだろうか。そのときの取材旅行は「辛亥革命」というタイトルで雑誌に連載されたが、完結せず途中中断、単行本にもなっていない。ただ小生にとっては初めての中国旅行であり、その後20数回中華圏を旅するきっかけとなった思い出深い記憶である。

ポルトガル料理

 野味を堪能したあとは、「益健保健中心僑光店」という巨大マッサージ店に入り、サウナ、垢すりの後、迷路のカラオケボックスみたいな個室に通されて、足のマッサージ60分、全身マッサージ90分、爪のカット、カッピング(肩から背中、腰まで20個以上の丸い痣が残り、Aさんに「エイリアンに食われた痕みたいだ」と言われる)までしてもらう。うつぶせになっているので何をどうされているのかわからないが、背中に砂のようなものを敷き、熱いものを押し当てられるとカチカチ山の狸状態。Aさんも小生も「アチチチ、アチチチ」と叫びながら許しを乞う。マッサージの女の子たちは笑って「アチチチ、アチチチ」と我々の口まねをする。とにかく強烈な施術を受けて、お腹が空いたので、マカオに移動。Aさんの奥さんT子さんは「シルク・ド・ソレイユ」が8時からなので、先発していた。
 夕食は午後9時からタイパ島のポルトガル・レストラン「A PETISQUEIRA」で。
                  干し鱈のグリル
蛸のサラダ、浅蜊の炒め、干し鱈のグリル、チョリソー、浅蜊と豚肉とじゃがいもの料理(下の写真。T子さんがリスボンで食べておいしかったというので注文したが、この日出たものとはちょっと違っていたらしい)。10時半過ぎ、T子さんも合流。ポルトガル・ワイン大変美味なれど、全身マッサージのおかげか体の隅々までアルコールが行き渡り、3本目でもう限界…。

珠海の野味

「佃の渡しみたいなものですよ」とTさん。連絡船はものの5分もたたぬうちに対岸の湾仔に着く。タクシーをつかまえて乗り込み、Tさんが交渉すると「あそこなら虎が食べられるかもしれない」と運転手がいう「大帝苑酒家」まで15分くらい走る。陽光降り注ぎ、急に視界が広がって、広い中国の片田舎を走るような実感。遠く対岸にマカオのホテル・グランド・リスボアが見える。
「大帝苑酒家」に着き、2階の海が見える個室に案内される。今朝、当局の手入れがあったのでハクビシンはないとのことで、Tさんは残念そう。結局メニューは、ふくろうのスープ、鰐のスープ、センザンコウの醤油煮込み、レタスの腐乳炒め、野鳥の炊き込みご飯、野生のスッポンの蓮の葉包みセイロ蒸し。

              センザンコウの醤油煮込み
            野生のスッポンの蓮の葉包みセイロ蒸し

2010年12月29日(水)

 朝7時起床。体調はまずまずか。セナド広場まで歩き、「黄枝記」に入って咖哩牛腩麵と鮮蝦雲呑麵。25元と24元。どちらも小ぶりで麵も細い。メニューも豊富で落ち着いた良い店。近くのスタバでコーヒーを飲んだあと新馬路を歩いてみたが、マカオは繁体字なので気が落ち着く。
 埋め立て地には巨大な建物が立ち、バブリーで、観光客が落とす金で経済が成り立っている一方で、昔ながらの街並みからはのんびりとした風情が伝わってくる。しかし朝の散歩、中国ではいつもそうだが、排気ガスで目が痛くなる。

ホリデイ・インに宿を移し、12時半にAさん夫妻、Tさんとロビーで集合。今日は中国の専門家Tさんに珠海へ連れて行ってもらうのだ。朝香港から来たTさんもマカオのイミグレーションで1時間近く待たされ、うんざりした由。珠海への入境もきっと混んでいるだろうと、陸路ではなく船で行くことに。

2010年12月30日木曜日

2010年12月28日(火)マカオ・香港の旅

 朝10時発のJAL027便で香港へ。香港空港では入国せず、乗り換え待合室で16時発のマカオ行きフェリーを待つ。羽田で預けた荷物はフェリーチケットを買うときにタグカードをチェックされ、どうするのかわからないが、その客の荷物を飛行機から探し出して当該のフェリーに載せる、という仕組み。マカオのイミグレーションは人、人、人、の洪水で、世界各国から様々な飛行機で香港に来た観光客の荷物、本当にちゃんと仕分けして出てくるのか疑心暗鬼、不安にとらわれる。約40分の長い行列の果てにマカオ入り。イミグレーションの外に、無造作に小生の旅行鞄が放ってあった。
 午後6時過ぎ、やっとメトロパークホテルにたどりつく。思ったよりマカオまでは遠かった。Aさん、Tさんに電話。Tさんは成田からANAで香港に着き、マカオ行きフェリーの混雑した待合室を横目で見ながら(あの中に方円さんいるのかな)と思ったそうだ。旅慣れたTさんはエアポートエクスプレスでさっと香港市内に入り、小生がフェリーからマカオの海を眺めている頃にはホテルでくつろいでいたようだ。明日、12時半に待ち合わせと決める。
 午後7時過ぎ、Aさん夫妻がホテルに来てくれる。近くの「老四川」という店で、姜葱羊肉、レバーの入った酸辣湯、干鍋田鶏(蛙)に、マカオ・ビール、「瀘州老窖」52°など。ホテルへ戻り、風邪薬を飲んで早めに休む。朝から少々体調が悪く、初日からこれで大丈夫なのだろうか?
                                                               干鍋田鶏(蛙)                    
                                                                    姜葱羊肉

2010年11月2日火曜日

2010年11月3日(水)


 朝7時にKさんに来てもらい、鍵を返して、帰京する。中央高速道路、行きも帰りも、スムーズに移動するためには早朝しかないのだ。
 今回の八ヶ岳滞在、天候には恵まれなかったが、経験値を積み、ドライブや道のこと等、かなり習熟してきたことを実感。5泊して、「たかねの湯」に3回、「パノラマの湯」に1回。450円×4回=1800円。「ブランジェリークレッシェンド」(ぽこあぽこ)の玉子サンド、萌木の村「だいずや」の豆腐、「ハム日和」のハム・ソーセージ、「ひまわり市場」でポイントカードを作るetc.
 反省点;出歩いてばかりで、読書があまり進まなかった。伊坂幸太郎「マリアビートル」は作者の成長というか「嫌み」「毒」が出てきた。宮本徳蔵「文豪の食卓」(白水社)、宮本さん80歳、円熟の境地。芹澤和美・文+安藤“アン”誠起・写真「マカオ・ノスタルジック紀行」(双葉社)、これはなかなか良い本だった。年末のマカオ旅行のために。
 次回の課題;tadarino(イタリアン)、庫楽(くら・和食)、ヴィラ・アフガン(カレー)、「むかわの湯」……食べ物と温泉ばかり。

2010年11月2日(火)

                  
「たかねの湯」も「パノラマの湯」も北杜市の公共施設なので、入場料は北杜市民300円、別荘利用者450円、市外の一般客700円となっている。今年の夏までは700円を払っていたが、今回からは「大泉から来ました」といって、Yさん宅にあった電気料金通知書を見せ、450円で入る。
 今朝は秋晴れだが少しガスがあり、遠くの山並みは霞んでいる。窓から見えるススキが朝日を浴びて美しい。裏の森から枯れ葉が絶え間なく舞い散っている。
 アトリエの風通し。スイス・ベルン在住のYさんは、ドイツ国境のエルマティンゲンという町で大回顧展があり、今日がオープニングのはずだ。現在86歳、小生が生まれた頃米国に渡り、1950年代、アメリカ・モダン・アートの激動の日々を過ごし、アメリカ人と結婚して離婚、スイスに移住して欧州で人気画家となった。日本では知る人が少ないが、岐阜県恵那市と静岡県富士市に個人美術館がある。小生は昭和の終わり頃にYさんと知り合い、小説や本の相談相手になったり、美術館の企画展の案内文を書いたり、来日するたびに会っている。
 最近はさすがに日本までの長旅が億劫になったのか、以前ほどのペースではなくなった。この山荘を建てたころは、春と秋の年2回数ヶ月滞在していたのだが、今年は4月に3週間ほど滞在しただけ、来年は秋まで来る予定がないそうだ。
 小生が時々訪れて掃除や家のメンテナンスをしているのだが、会社つとめをしている以上、そうたびたびも来られない。冬は4WDの車がないと不便なのでちょっと無理。次に来られるのは来春だろうか。この5,6年、春夏秋冬来てみたが、やはり秋が最高である。やっと訪れた秋日和。今日が最後であるけれど…。

2010年11月1日月曜日

元気甲斐

http://r.tabelog.com/yamanashi/A1902/A190201/19000940/

今夜が一番のご馳走? 白州10年・エビス黒ビール。富山のイカ刺し。ハム日和のハム、ソーセージ。元気甲斐弁当。ラ・フランス。滝沢牧場アイスクリーム。

2010年11月1日(月)


朝から遠くの山脈が見渡せ、青空にちぎれ雲。台風が去ったあとの秋晴れ也。
伊坂幸太郎「マリアビートル」、貫井徳郎「灰色の虹」読み進める。
八ヶ岳広域農道(レインボーライン)を走ると、朝日に映えて紅葉が美しい。昨年ほどの鮮やかさではないけれど。
小淵沢駅まで家人を送り、リソナーレ(写真2枚目)へ。Books&Cafeで「Hanako」池袋特集を買い、ファーマーズトマトでトマトピザトースト買う(明日の朝食用)。O氏夫人より薦められたギャラリーアビアントへ寄る。この一帯、馬の農場多く、アメリカンな店多し。帰宅し、アトリエの風通し、母屋の掃除。浴室の電球が切れていることに気づく。
「高根の湯」へ。浴場から、富士山が初めて見えた。

2010年10月31日(日)

台風は去ったものの、この日は一日霧と曇り。長坂町のOさん宅を訪ねる。O氏一家とは6年ほど前からの知り合いで、O氏は写真家、造形作家、ギャラリー経営など。先週、国分寺のギャラリーでO氏の個展があり、行ってきたばかり。O氏の実家は小金井にあり、今その家には母親、O氏、息子2人、娘1人の5人が住み、八ヶ岳南麓・長坂の家にはO氏夫人が1人で暮らす。昨年までは長坂の家に家族の大半が暮らしていたのだが、ギャラリーの閉鎖、息子たちの進学や転職、O氏の飽きっぽさ等の複合結果で夫人だけがこの家に残って、庭造り・畑作業を楽しんでいる。家人とO氏夫人とがもっぱら喋っていたが、八ヶ岳暮らしの情報交換が色々とできた。紅茶と手作り栗きんとん。お土産にレモンバームと大根をいただく。
「峠のギャラリー歩”らり」(ぶらり)へ。コンクリートの建物に茅葺きの屋根。女主人は染色作家で国内外の工芸品や衣類が並び、企画展も多い。この店もO氏と何度か来ており、家人が好みそうなので連れてきたのだ。漆塗り食器の作家展をやっていて、いきなりその作家に熱くアピールされたのだが、5万円、6万円という作品、急には買えません。丈夫な器で実用性は高そうだったけれど。奥の常設展示場で家人はキッチンクロス等の小品を買っていた。女主人は30年来、12月初旬に店を閉めるとインドへ行くのが習慣。デリーで布を買い、染色の町ジャイプールに滞在して布を染め、帰国して作品を制作、4月からギャラリーを再開する。どの作品も上品でオリジナリティにあふれており、女性もののジャケットが並ぶあたりは究極のセレクトショップ(1点ものしか置かない店)というべきか。我が家の中途半端なライフスタイルには適合しないというのが家人の感想。
「ぶらり」の向かいにあるイタリアンが貸し切りで入れなかったため、清里・萌木の村にある大型レストラン「ROCK」へ。清里駅周辺は時代に取り残されたメルヘンの残骸、シャッター通りだが、このレストランは大盛況。家族連れで賑わい、ハロウィンの日なので装飾・彩りもにぎやかである。ビザ、スパゲティ、サラダ(以上まずまず美味)、キリンFREE(不味くて残す)。
帰宅して読書、昼寝。娘からメールあり、秩父宮ラグビー場へBFと関東学院大学の応援に行ったが、法政に逆転負け。前半は27對3と優勢だったのに、後半5トライもされて35對0とは情けない。連勝が止まり4勝1敗。東海大は5連勝。
雨強くなる。近所の「パノラマの湯」へ。この温泉は、観光客が山に登ったりテニスやゴルフをしたあと東京に戻る前に汗を流そうと入る場所で、大荷物の団体さんが多い。休憩所で汗がひくのを待っていると上野千鶴子氏が前を通ってギョッとする。外人を含め学者らしい人が数人いたから何かの小旅行だったのだろう。
夕食は、さしみこんにゃく、「ハム日和」のハム、O氏夫人にもらった大根のサラダ、チーズ、昨日の焼き鳥の残り、お稲荷さん、赤ワイン、日本酒(高根町・八卷酒造の「男山」)、豆腐の味噌汁(インスタント)。

2010年10月30日土曜日

2010年10月30日(土)

朝、珈琲をいれようとアルミの袋の封を切ると、豆のまま…。台風が近づき、夜半から雨だが、こちらに着いた昨日の朝ほどの寒さではない。
「月舎」で、鴨汁そば、山かけそば。リゾナーレへ。やはりウェディングドレス姿を撮影中の女性がいた。打ち合わせにきた数ヶ月前、まさか10月末の今日がこんな大雨とは予想もしなかったであろう。丸山珈琲で豆を挽いてもらい、Books&Cafeなどに寄り、「きららシティ」と「ひまわり市場」で今夜と明朝の食料等を買って帰宅。家人は「ひまわり市場」のほうがずっと良いという。野菜はもちろん、魚介類が豊富で新鮮。富山直送鱒寿司なども並んでいた。
一休みしてから雨の中「高根の湯」へ。この近辺にはいくつかの温泉があるが、小生はここが気に入っている。地元の人しか来ないので空いている。座敷があってのんびりできる。露天はないが浴槽が広々としていて、景色が良い。晴れた日は富士山が眺められる。お湯もまあまあ。家人も満足したようだ。
台風は関東を直撃せず、房総半島をかすって、太平洋の方へ抜ける模様。
夏に来たときに冷蔵庫に残しておいたスプマンテをちびちび飲みながら、夕食。焼き鳥、サラダ各種、シメサバ、ヒラメ、太巻き寿司。

カフェ明治学校


2010年10月29日(金)

朝4時40分自宅を出発。7時長坂着。大泉のYさん宅に今日から6日間滞在する予定也。セコム、水道、電気、ガスなどをチェックしてから簡単な掃除をする。荷物を運び込み、PC(無線LAN)がつながることも確認する。台風が近づいているので気が重かったが、とりあえず晴れており、八ヶ岳の稜線がはっきりと見える。
小淵沢駅へ行き、家人は11月1日朝10時発の「あずさ」新宿行きの切符を購入。駅の立ち食いそば屋で「野沢菜天ぷらそば」。この店の蕎麦は毎回八ヶ岳に来るたびに楽しみにしている。リゾナーレの丸山珈琲へ。ピーマン通りの蔦の紅葉が美しい。「ひまわり市場」で買い物をしていったん帰宅。
午後、「おいしい学校」へ。須玉歴史資料館(旧津金学校藤村式校舎)内にある「カフェ明治学校」でランチ。八ヶ岳アウトレットに寄って、一日が終わる。さすがにアウトレットもがらがらであった。

2010年10月4日月曜日

2010年9月21日(火)

朝5時にホテルをチェックアウトし、6時8分発のKTXでソウルへ。ぐっすり眠る。8:00ソウル着。雨。タクシーで金浦空港まで約30分、2万ウォン。カウンターへ行くと、JL92便でなく、その前のKE2707便に乗れと言われる。韓国の女性の強引さに、言われるがままに、あっという間に羽田へ。お昼前に帰国してしまった。

以上、慣らしブログ第一弾でした。

2010年9月20日(月)

夜は雨だった。
朝食では、ホテルのオーナーである河さんの故郷(智里山の近く)から送られてきた栗を食べる。河さんにNHK-BSを見られるようにしてください、と要望。河さんは昨年まで東京・白金に十数年住んでいたが、お父上が老齢になり、韓国に戻ってホテルを継いだという女性。50歳くらいだろうか。息子は香港にいるという。
秋夕のため、釜山からの飛行機は空席待ちのままらちが明かず、あきらめる。JALに電話し、金浦 → 羽田行の飛行機があるというので、それに変更。
地下鉄沙月からタクシーでR大学。今週はずっと休みなので、学生の姿は少ない。中国研究センターのF先生を訪ねる。大学内を散歩。食堂でテジチゲ2人前7000ウォン也をご馳走になる。蒸し暑い! F先生は週末にある沙也可研究会の準備に忙しい。来年3月からは日本語を教える授業も受け持つことになる由。再会を約して市内へ戻る。

午後、Lさん、CFさんと大邱駅の北部にある「天使館」という建物へ。これはまあ、ヤマダ電気と大塚家具と結婚式場が一緒になったような巨大な建物で、2Fにある「コンピュータープラザ」という店に。Lさんの知人が経営するサムスンの代理店。ここで、最新式のノートパソコン(SAMSUNG SENS Q230)を購入。今もそれでこのブログを書いている。130万ウォン也。クレジットカードの請求額は9万7000円くらいだった。

Lさん、CFさんとキムチチゲを囲んで、お別れ。今回も大変お世話になりました。昨日、高霊に連れて行っていただいたCCさんは今頃ソウルに向かっている。CCさんの二人の息子はソウルで検事と医者をやっており、秋夕はソウルの息子の家で迎えるのが慣わしとか。

2010年10月2日土曜日

2010年9月19日(日)

今日は初めてCCさんの車に乗せてもらう。同じ80ウン歳のお年寄りでも、Lさんの慎重・的確な運転とは大違いで、道は間違えるは勝手なところでノロノロ走るは、ウィンカーは出しっぱなしだは、と助手席の小生は冷や汗もの。途中、乱暴な韓国の運転事情を垣間見るような、あちらでガシャン、こちらでガツンと2回も交通事故を見かける。それでもCCさんでも何とか運転して目的地に着けるのだから、小生も韓国に住むようになったら車の運転をしてみようかな…

大邱から南へ約1時間、高霊(コリョン)にある「大加耶博物館」訪問が今日の目的。加耶とは、3世紀から6世紀にかけて洛東江流域にあった小国家群で、562年に新羅に併合されることで加耶時代は終わる。この地域の発掘調査は1970年代以降に始まったばかりで、日本列島全域で見つかる装身具や馬具はこの地域で生産されたものであることが確認されるなど、古代の日朝関係の交易がさかんであったことが明らかになった。

大加耶博物館では、韓国で最初に確認された殉葬墓である池山洞44号墳の内部を再現し、殉葬制度や墓の特徴を原寸大で見ることができる。王の名前はわかっていないが、王の周りに家来やその一族が数十人殉葬されている様態が興味深い。ガイドの聞さんによると、殉死と殉葬は違うのだそうだ。殉死は乃木大将のように家臣が切腹して王の死に続くこと。殉葬というのは女も子供も無理やり殺されるのだそうだ。王が暮らしていたときと同じような人々(家臣、奴隷、女、子供)を殺して同じ墓に埋め、王が来世でも同じような暮らしをできるように配慮するということらしい。殺された証拠に、遺骨の頭蓋骨に穴が開いていたりするそうだ。

任那日本府の問題や加耶の時代などについては、現時点で、初心者の小生には正直いって手に余る。大邱に住んで、自然に少しずつ関心を深め、現地を訪ねて、思ったことを書いていきたい。
「大加耶博物館」の係員が「お土産に」といって、発掘品の杯のレプリカをプレゼントしてくれた。日本人はまだ珍しいのだろうか?

大加耶博物館

高霊郡池山里にある大加耶博物館と池山洞古墳群

2010年10月1日金曜日

ディアスポラ(その続き)

9月17日の夜、沙也可の話から、「アラジン」でC教授が「最近、ディアスポラに関心があって…」という展開になる。文禄・慶長の役で加藤清正配下の武将・沙也可が投降し、金忠善となったという伝承が現在の鹿洞書院につながっている。ちなみにF先生は沙也可研究会を主宰し、沙也可は阿蘇氏の一人であるという観点から調査を進めている。

小生が大邱を訪ねるようになったのは、宮本徳蔵氏の小説「虎砲記」を読み、金忠善の子孫が金海金氏となり、鹿洞書院を中心とした村に住んでいるという物語に魅かれたことがきっかけだった。
大邱を初めて訪ねたのは、2007年の年末だった。記念館を見せてもらうと、展示の仕方も建物も少々お粗末で、失望したのを思い出す。夏場は日本人が乗った観光バスが止まることもあるそうだし、紀州・雑賀説(神坂次郎氏が提唱)が政治家がらみ(経済と観光)で大手を振り、伝承の検証と史実の探求、現実の子孫たちの思惑とは微妙にずれや歪みをもたらしている。

C教授に、小生が10年前に訪ねた、セビリア郊外にあるコリア・デル・リオという村の話をした。支倉常長の遣欧使節団の中で6~8人が帰国せず、スペインに残り、現地で結婚しハポン(日本)という姓を名乗るようになった。コリア・デル・リオには、800名以上のハポン性を持つ人々が住むそうだ。何人かのハポンさんに会ったが、金髪あり、アラブ風あり、東洋系の名残りは感じられなかった。でも時々蒙古斑を持つ赤ん坊が生まれるという。

約400年という歴史を持つ「ディアスポラ」の人々として、遣欧使節団の末裔たちと金忠善の末裔たちとは共通するものがあるのではないか。コリア・デル・リオの伝承については、逢坂剛『ハポン追跡』、宮本徳蔵『スペイン侍』『米の島』という小説がある。

しかしまあ、「ディアスポラ」という概念はいくらでも拡大解釈ができ、ずいぶん便利で恣意的に使えそうである。「漂泊」とか「デラシネ」という言葉に近い、文学的で安易な広がり方をするのではないだろうか。例えばスターリンによってサハリンから中央アジアに強制移住させられた朝鮮人などには、その言葉が適切なような気がするが、金石範氏の文脈における「在日」=「ディアスポラ」というのは、小生には強引にすぎるのではないかと思えて、ちょっと抵抗を感じる。

ディアスポラ(続)

ディアスポラδιασπορά、英:Diaspora, diaspora)とは、(植物の種などの)「撒き散らされたもの」という意味のギリシャ語に由来する言葉で、元の国家や民族の居住地を離れて暮らす国民や民族の集団ないしコミュニティ、またはそのように離散すること自体を指す。難民とディアスポラの違いは、前者が元の居住地に帰還する可能性を含んでいるのに対し、後者は離散先での永住と定着を示唆している点にある。(Wikipedia)

金石範『国境を越えるもの』(2004 文藝春秋刊)より
「ディアスポラ」というのはもともとユダヤ人の代名詞でありまして、二千年来の歴史があるんですが、このごろは「越境者」や「越境的なこと」に対して「ディアスポラ」がよく使われるようです。在日朝鮮人はこの新しい横文字の表現で言うと「ディアスポラ」なんですよ。「ディアスポラ」の背景には、自らすすんで移民するというのではなく、いろんな権力、政治的な抑圧がある。ユダヤの場合は、国がローマに滅ぼされて散り散りになってから二千年が経つわけですけれども、「在日」は日本の帝国主義によって結局「ディアスポラ」の運命に追い込まれた。中国にいま二百万人くらい、世界に五百万人くらいの朝鮮人がおります。すべて日本の帝国主義が原因というわけではありませんが、特に在日朝鮮人の場合に限っていえば、戦時中は百六十万人の強制連行があったわけですが、それだけを取ってみても在日朝鮮人は「ディアスポラ」以外のものではありません。

ディアスポラ

沙也可(金忠善)の村にある鹿洞書院

2010年9月30日木曜日

松林寺

松林寺は新羅時代544年の創建。煉瓦が五層に積み上げられた美しい仏塔で有名。高さは16メートル余り。
話が少し戻ると、第2石窟庵を見学する前に、村の食堂で食べた오리(鴨)焼きが美味しかった。たっぷりの炭火で焼いた오리、今回の旅では一番の味であった。
松林寺、建物がみな綺麗で垢抜けがしている。この寺には喫茶館があり、4人で上り込んで、愛らしい女性のサービスで松茶、五味茶などを楽しみ、雑談、ゴロゴロのんびり。この日も猛暑の名残で陽射しが強く、歩くと汗が吹き出てくる。夕方、少し涼しくなるまでくつろいで、大邱市内に戻る。「新宿」という店でもりそばを食べて解散。東城路を歩き、GAPでTシャツ、ZARAでポロシャツを買ってホテルに戻る。
七世紀末に造られたという。世界遺産である仏国寺の釈迦如来像に比べれば素朴な阿弥陀仏ではあるが、山の中の崖に彫られた姿には、好感が持てる。住職に無理を言って、鍵をあけてもらい、間近で記念撮影。
これは八公山の北にある第2石窟庵。第2というのは、慶州仏国寺にある石窟庵を第1とするからである。こちらのほうが100年以上前に造られているというのに、可哀そうな通称である。

軍威三尊石窟(第2石窟庵)

2010年9月18日(土)

秋夕なので、皆さん忙しそうだ。昨夜はR大学のF先生、S教授、C教授と再会し、焼肉とカフェ。カフェというのは変だと思われるかもしれないけど、「アラジン」というC教授行きつけのこの店、小生もよく理解できない。レストランでもあり、カフェでもあり、ルームサロンとは違うし…。お目当てのCママが外出中で、帰ってこない。4人でハーブ・ティーをがぶがぶ飲みながら、沙也可(金忠善)の話やら、小生が十年前に訪ねたコリア・デル・リオ(セビリア郊外にあるハポン=日本=村)の話やら。S教授やC教授は車を運転するので、お酒を抜くためにこの店を2次会に利用するらしい。
結局、ママは帰って来ず、C教授は私のお土産のどら焼きを「ママに渡してね」と店の女の子に預け、解散。S教授は明日から9連休だと、嬉しそう。ここまでは昨夜の話。

本日は、Lさん、CFさん、CCさん、と大邱近郊を観光する。Lさんの運転で、八公山(パルコンサン)にある第2石窟庵へ。