松林寺 大邱・八公山(パルコンサン)にある名刹

2014年3月18日火曜日

新学期始まる

2014年3月10日(月)から、韓国では新学期が始まった。
大邱の今年の冬は比較的温かかったそうで、水道が凍り付いて破裂するようなこともなく、雪もほとんど降らなかった。




3級3班の顔ぶれは、中国人8名、サウジアラビア人3名、ウズベキスタン人1名、日本人(小生)1名の13名。
ただ春の新学期なので、1級、2級などを含めて、日本人は7名となり、前学期より増えた。小生以外は若い女性である。ネパール人のK君は卒業していなくなったが、日本語が上手で話しかけてきた中国人男性1名、横浜に5か月留学したというフランス系アルジェリア人女性など、日本語を話す学生は増えてきた。
授業は朝9時から午後1時までの毎日4時間。これに加えて火曜日と木曜日は午後2時から4時までTOPIKという韓国語能力試験のための特別授業がある。教科書は西江大学のテキストからソウル大学のテキストに変更となった。前学期には、何の知らせもないのである。
先生は2人から4人に増えた。ソウル大学のテキストはぶ厚く重く、内容も詳細で項目が多い。10週間で消化するために、授業もスピードアップされ、急に詰め込み教育となった。あまりの変化に、学生も先生も、ふーふー言っている。
特に週に2回の、TOPIKのための特別追加授業、これは何だろう?
TOPIKに合格すれば、嶺南大学の入学に有利となるし、奨学金なども受けやすい、くらいの簡単な説明があったが、何のことわりもなく、負担が増えたような気がして、首をかしげる。
授業料は変わらないからお得、という考え方もあるが、TOPIKなんか受ける気持ちのない小生には有難迷惑である。おそらく、語学堂としてTOPIK合格者の増加が至上課題というようなことになったのではないだろうか?
そんなことを考えつつ、火曜日、午後1時から2時までの昼食時間、外へ出ると、2級クラスで一緒だったサウジのモハ氏と会う。彼は3級に進学できずに2級をもう一度することになった、30代半ば、韓国人女性と2年前に結婚して大邱に住んでいるという人物。彼もずいぶん昔に大学を卒業しているしTOPIKを受ける気はないので、どうしてわれわれは突然こんな消耗する授業を受けなきゃならんのか、と嘆きあったのであった。

今日のエピソード。韓国の歌で誰でも(누구나)知っている歌はありますか、という例文。皆それぞれ、知っている韓国の歌の名を言ったり歌ったりするが、やはり「知らない」という学生がいる。小生思わず「トラワーヨー、プサンハンエー」(釜山港へ帰れ)を歌った。中野良子似の徐先生は爆笑、「アボジかハラボジの世代の歌よ」「誰でも、ではなく、誰も(아무도)知らない、よね」…。1990年代生まれの若者に混じって学ぶ悲哀を感じたのであった。

最近食べたもの


2014年2月から3月に食べたもの。



「낙지이야기」の生ナクチ。




キム・グァンソク (金光石)は386世代の感情を歌い支持された大邱出身のフォークシンガー。32歳で自殺し、韓国の尾崎豊と呼ばれることもある。



岐阜県瑞浪市「水半茶寮」のランチで食べた親子丼。


石神井公園「こねり庵」の鴨南蛮そば。鴨がぶあつくて、ステーキのようだった。娘の同級生が最近開店した店也。


久しぶりなので期待して三島の「桜家」へ。この日は白焼きもべチャッ、うな重もご飯がベチャッで、がっかりした。


八公山の麓で食べた山菜ビビンバ。


これは馬山魚市場の食堂で食べたミルチ(メナダ)の刺身。コリコリとして新鮮!



蔚山で食べた鯨のユッケ。冷蔵庫から出した冷凍の塊を切っただけ。タクシーの運転手氏にすすめられるまま入った鯨専門食堂だが、空振りに終わる。高かった(泣)。


大邱の「かたつむり食堂」のざる蕎麦。

最後はノボテルの地下街にある 해밥달밥 という、韓国らしい味わいの創作料理(?)。素材が新鮮で丁寧な作り。色彩もあざやか。

2014年3月16日日曜日

馬山 巨済 ソチ

2014年2月17日(月)

馬山という町は韓国現代史によく登場する名前なので以前から興味があった。3・15馬山事件、釜馬民主抗争、光州事件など、民主化闘争の波は馬山から始まることが多かった。
しかし今回の小旅行では、巨済まで足を延ばしつつ、ソチ・オリンピックが気になり、春の気配というには少々早すぎるし、帰国の準備も控えていて、何かと中途半端に終わってしまった。



馬山は坂の多いごちゃごちゃとした古い町で、洗練されておらず、一昔前に来たような感じを受ける。市民や学生の反体制デモが頻発したという町並みを眺めつつ、Mホテルへ。ラブホのような名前だが、普通のビジネスホテルであった。フロントの女性も感じがいい。Mは馬山のMだろうか。
どこへ行こうかと思うが、馬山の観光地図がない。韓国各地で、旅行者に便利な地図が簡単には手に入らないことがある。馬山市は4年前に昌原(チャンウォン)市に合併され、今は昌原市の馬山会原区と馬山合浦区である。昌原区役所に向かうと、これが結構遠くて、中国に来たかと錯覚するような、広い通りに大きな建物が散在する、馬山市街とは対照的な地域であった。


昌原市役所の前は巨大なラウンドアバウト(環状交差点)になっていて、こんな大規模なロータリーを見るのは韓国に来て初めて。
観光地図をもらい、タクシーに乗ると、在日経験の長い運転手氏で、久しぶりに自由に日本語を話すことができた。馬山は朴正煕時代にいち早く自由貿易地区となり、昔から日本の会社や工場が栄枯盛衰を繰り広げた地域だという。現在馬山からは日本の会社はほとんど撤退したが、広い土地のある昌原には多くの日本企業が進出しているそうだ。釜山からも近く、気候も温暖で、土地も十分にあるので、コニカミノルタ、デンソーなどの、工場や物流倉庫が林立しているとか。


これはホテル近くの「馬山魚市場」。馬山は港町なのでアグチム(あんこうの蒸煮)やふぐが有名らしいが、この日の夕食は近海の魚の刺身を食べた。食べ物一覧は次回にて。

翌日、巨済島へ向かう。南部市外ターミナルからバスに乗るが、生憎の雨模様で、寒空のもと、統営などを過ぎながら、巨済市内へ。馬山よりもっと田舎の昔の町並みである。






韓国で2番目に大きな島であり、対馬との距離は約50キロ、元寇の頃から、日本との交通の要衝である。
タクシーを頼んで数時間島を走ってもらう。風が吹き付け霙交じりの雨もあったりで、散々であった。海水浴場、ビーチホテル、別荘地などが目につくが、春の気配未だしでは、寒々しいばかりである。夏には別荘地に中国人の姿が多いとか。
軽井沢+熱海+瀬戸内海、といった景色であった。
迷っていたが、明日大邱に戻り、自宅でキム・ヨナと浅田真央の対決を見ることにする。
蔚山は倭城を見るだけで良かったのだが、このあたり、多島海地域は、もっとゆっくり時間をかけて、温かな季節に再訪したいというのが結論。

2014年3月12日水曜日

2014年2月17日(月)

鶴城公園(蔚山倭城)に登ってみる。
蔚山城での攻防は、朝鮮出兵の中でも特筆すべき激戦だった。
太和江に近く、市内を見下ろす小山である。規模は小さいが、見晴らしは良い。
400年前は、蔚山湾の最奥に位置しており、城下には船を着けることができたという。
昨日行った西生浦倭城から北に15キロの拠点である。慶長2年(1597)11月から、加藤清正、毛利秀元、浅野幸長の軍勢が、40日間の突貫工事で城を築いた。
蔚山城に向かった明・朝鮮連合軍は約57000人(朝鮮軍は12500人)。
急襲に遭い、日本軍は籠城戦に追い込まれる。籠城兵力は約10000人というが、この小さな島のような山に、そんなに多数の人間が本当に生存できたのだろうか?
せいぜい1000人くらいしか籠城できないような狭さなのだが…。








連日の攻城戦で、日本軍は城から無数の銃弾を浴びせて明・朝鮮軍を撃退し、大きな損害を与えた。しかし籠城戦で食料の備蓄は乏しく、冬の寒さと飢えにより、悲惨な状態となる。兵たちは馬を殺して飢えを凌いだ。落城は時間の問題となり、12月29日、城を明け渡せば和睦するとの使者が現れた。降倭将の岡本越後守(沙也加?)と田原七左衛門だったという。
慶長3年(1598)1月3日、小早川秀秋、黒田長正、長宗我部元親らの援軍約13000人が到着し、激しい戦闘の末、明・朝鮮連合軍は撤退した。敗北した明軍は20000人近い兵を失った。








慶長3年9月下旬から10月初めにかけても、明・朝鮮連合軍約30000人、日本軍10000人の規模で、同様の攻防戦、籠城戦が行われ、明・朝鮮軍は攻めきれずに撤退した。
8月18日、豊臣秀吉が死去。加藤清正は11月18日に蔚山城から撤退、帰国した。





現在の鶴城公園は市内の平凡な公園である。中高年の市民が散歩をしたり、韓国のどの公園にもある遊具で体操をしたりしている。


蔚山から高速バスで馬山に向かう。

2014年3月1日土曜日

蔚山の倭城

2014年2月13日(木)で、冬期授業は終了。期末試験も無事に通過して、3月から3級のクラスに進学する。翌日、中国人のクラスメートはほとんどが国に帰ってしまった。
ソチ・オリンピックも気になるが、せっかくの春休み、少しだけ旅行をすることに。
まず近場の蔚山(ウルサン)へ。バスで1時間余り、人口約100万人、韓国第7位の大都市で、現代自動車や現代重工業のお膝元である。小生の住む風景荘の家主は、蔚山に住む現代系企業の社長さんだとか。

2014年2月16日(日)
西生浦倭城(서생포왜성)を訪ねる。
太和江(テファガン)駅まで歩く。太和江駅は昔の蔚山駅。KTXの蔚山駅ができたことで、名前が変わったとのこと。
太和江は蔚山市内を東西に流れる大きな川。泊まったモーテルも川沿いだったので、対岸の光景はなかなか良かった。



駅前から715番のバスに乗り、西生浦の停留所まで1時間余り。釜山との市境近くまで南下する。




小さな停留所に降り立つと、右のほうに丘陵が見える。その全体が西生浦倭城である。文禄の役(朝鮮出兵、壬辰倭乱)勃発の翌年(1593)から加藤清正が築いた、韓国南海岸各地に散在する倭城の中でも最も規模の大きな城である。
山頂までは徒歩20分くらいか、トレッキングなどにはちょうど良い規模の丘陵だが、かなり雪が積もっていて、日曜日だというのに、歩いているのは小生1人だけである。








雪の山道を歩き、苦労して山頂の天守台跡に辿り着くと、小屋があって、管理人(?)のアジョシが一人で中にいた。パンフレットをもらい、毎日ここにいるのかと聞くと、そうだという。空は青く、空気はおいしい。雪さえなければ多くの人々が訪ねてくるだろうに、ちょっと孤独なアジョシが気の毒になる。



帰り道、ようやく中年夫婦が登ってきて、すれ違う。
山城から見る日本海(東海)は、なかなかの景色で、ここに城を建てた理由が納得できる。翌日訪ねた蔚山倭城も同様で、見晴らしの良い、ここが一番という場所に城を建てたということだろう。




1594年から、終戦交渉が始まり、1598年には明軍の攻勢があり、日本軍は撤退する。その直後から約300年間、朝鮮水軍の兵営として使われたという。