松林寺 大邱・八公山(パルコンサン)にある名刹

2016年12月28日水曜日

晋州冷麺

 8月3日。新梅の「진주냉면」(晋州冷麺)に4日連続で行く!


 最後に食べたビビンネンミョンはダメだった。普通のムルネンミョン(写真)が美味也。

 8月6日 リオデジャネイロ、オリンピック開幕式。テグハルで日本語を教えている4人と刺身の店に。
 8月8日 天皇陛下お言葉(生前退位)。イチロー、3000本安打(マイアミ・マーリンズ)。
 8月11日 この日から新しい祝日「山の日」。8月12日が本来のプランだったが、御巣鷹山日航機墜落の日(あれから31年)なので11日になった由。
 8月15日 光復節、終戦記念日。この日を韓国で迎えるのは初めて。
 8月16日 補充課目申請、インターネットでは案の定満席でうまく行かず、K助教に任せることに。말복(末伏)なので、韓国学科のナム君(ベトナム)と参鶏湯を食べる。
 8月は3つ連続台風が来襲し、東京の自宅も被害を受ける。暴風が吹き上げ、台所から雨漏りがあったのだ。
 8月21日 中井にある目白大学で通訳・観光案内士試験を受ける。自信はあったのだが、11月に発表があり、不合格。この頃、村田沙耶香「コンビニ人間」、崔実「ジニのパズル」を読む。
 9月2日 嶺南大学HPのためのインタビューを受ける。

 https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1288639231159689&id=140220872668203

  内容は大邱新聞のものと大差はないが、奨学金をもらっているので、ささやかなお返しのつもりで学生たちに日本語を教えているという話もした。

2016年12月28日(水)

 4か月ぶりの投稿也。9月から12月までの最後の学期を振り返って書いてみたい。facebookやtwitterばかりやっていて、ブログを書くのが面倒に思えたのだが、ようやく暇ができたので、これから数日かけて・・。
 その前に、2016年の夏のことをアトランダムに少しずつ。
 7月16日、出来たばかりの「バスタ新宿」から三島へ。
 新宿14時 → 三島北口15時50分。





 熱海の友人に会うために利用。このターミナル、コンビニがない、女性トイレが足りないなどオープン時の設備が不評だったが、今はかなり改善されたらしい。
 新宿からの高速バスはビルの谷間に点在していて不便だったが、この統合施設の完成で関東近郊なら手軽にバスで行けるようになった。名古屋、大阪、その他もっと遠い都市へも行ける便があるのだが、小生には機会がないかも。韓国では高速バスに乗れば主要都市に1時間~3時間くらいで行くことができる。それだけ日本は国土が広いということなのだが、韓国のバス網は実に便利である。12月に東大邱駅にも新しい統合バスターミナルが完成した。
 熱海に1泊。夕食は三島の「うな繁」。今年最後の鰻重だったが、あっさりしすぎて不満だった。
 翌朝は「カメダ」珈琲でトースト。昼食は熱海「更科」で蕎麦。女性4人と再会のランチ。
 この前後に読んだ本は、柳澤健「1974年のサマークリスマス 林義雄とパックインミュージックの時代」、好村兼一「いのち買うてくれ」。
 7月11日、下高井戸シネマで韓国映画「花、香る歌」=原題は「도리화가」(桃李花歌)を観る。スジ、リュ・スンリョン主演。スジのパンソリはまあまあ頑張っているが、当たり前だが「西便制」には遥かに及ばない。


 7月30日、テグハルで「サブカルチャー講座 日本アニメーションの歴史を中心に」講演。日本語文学会主催。日本国際交流基金後援。
 7月31日、小池百合子圧勝。千代の富士死去。

2016年8月18日木曜日

釜山行

この夏観客数1100万人を突破した映画「釜山行」(プサンヘン)を観る。入場料はプライム価格とかで高く、9000ウォン(学生割引で7000ウォン)。


徹底した娯楽作品で、ソウルから釜山へ走るKTXの列車内だけが舞台のゾンビ映画。人物配置やら、現代韓国の世相を風刺するなどの工夫はされているが、とにかく主人公たちとゾンビたちとの死闘の連続。いったいどんな展開になるのか見通せずハラハラドキドキ、要はそれだけの、暇つぶしにはぴったりの映画だった。


主演はコン・ユ。コン・ユが好きな韓国人女性は多いネ。小生にはさっぱりわかりません・・・

助演にチョン・ユミ、マ・ドンソク。
マ・ドンソクは相変わらず腕っぷしに物を言わせる役で、なかなか味がある。

とにかくゾンビに食われると忽ちゾンビに早変わりする。その早さ、せっかちさが韓国らしくて、映画のスピード感を出している。

2016年8月12日金曜日

仁川上陸作戦

7月27日公開以来、観客数550万人を突破した「仁川上陸作戦」を観る。




イ・ジョンジェ = 仁川上陸作戦成功のために諜報活動を遂行する海軍諜報部隊大尉

イ・ボムス  = 仁川を掌握する北朝鮮軍司令官

リーアム・ニーソン = ダグラス・マッカーサー将軍

製作費は約14億円。リーアム・ニーソンの出演料は2億円だという。観客数700万人が目標で、全米公開も間近となり、順調な興行成績を収めている。


イ・ジョンジェたちは「X-ray」作戦という名の諜報部隊で、仁川を占領している北朝鮮軍に合流する。もちろん全員が北朝鮮軍の軍服を着ており、北朝鮮訛りで話すので、最初のうちは怪しまれない。
しかし、イ・ボムス扮する司令官が次第に疑問を抱く・・・という展開である。
イ・ジョンジェが格好いいのは相変わらずだが、イ・ボムスが強烈なキャラクターで迫力がある。このために7キロも増量したとかで、傲慢狡猾で猜疑心に満ち、腕っ節の強い司令官を怪演。

結論から言うと、諜報部隊の献身と犠牲により、仁川上陸作戦は奇襲に成功するという流れは誰にでも予想できる。そのために仁川上陸のクライマックスまでにいかに盛り上げるか、という単純な映画である。仁川上陸そのものはCG映像が多いし、上陸後の戦闘も描かれない。

試写会の段階では「時代遅れの反共映画」などという酷評も見られたそうだが、封切りされると大ヒット。若者よりも年配者の観客が多いらしい。

この映画は一部で「クッポン」という評価を受けている。国家(クッカ)と覚せい剤のヒロポンの合成語で、クッポンとは、民族主義やナショナリズムを過剰に煽り立てる「愛国マーケティング」を揶揄したり卑下して言うことらしい。

「国際市場で会いましょう」(原題「国際市場」) →朝鮮戦争
「延坪海戦」                      →北朝鮮との海戦
「バトルオーシャン 海上決戦」(原題「鳴梁」) →李舜臣
「鬼郷」                         →慰安婦
「暗殺」                         →独立運動

などの作品が過去の記事で「クッポン」と言われたそうだが、そんなふうに考えると「徳恵翁主」だってそうである。日帝の支配を憎むあまり、李朝王族までが抗日独立運動に加担するというトンデモ・ストーリーなんだもの。

近代史、現代史に映画の題材を求めれば、製作者・監督は国民の感情に強く訴えることを狙い、あざとい演出や歴史歪曲が当たり前のようになってしまう。
韓国映画は、とにかく刺激的で、ダイナミックならそれで良しとするようなところがある。

「仁川上陸作戦」の場合は、敵は北朝鮮人民軍であり、共産主義であるとはっきりしていて、そこに「民族同胞が殺しあう悲劇」などといった観点はほとんど入らない。そのほうが明快な勧善懲悪の娯楽映画に徹することができるからだ。
北朝鮮にシンパシーを持つ人、現政府に批判的な人たちは、それを批判して「クッポン」という言葉を使うのだろう。
リーアム・ニーソンのマッカーサーは、確かに適役なんだけど、従来のイメージ通りのマッカーサーでしかない、という批評も出ていましたね。

徳恵翁主

2016年8月9日(火)

猛暑。 慶山ロッテシネマで、「徳恵翁主」(トッケ・オンジュ 덕혜옹주) を観る。



英題は「The Last Princess」。今年の夏は観客数1000万人を突破した「釜山行」をはじめ、話題作が多い。ソン・イェジン主演のこの歴史(?)映画も、公開して1週間で観客数200万人を越え、夏休みの人気映画となっているようだ。

徳恵翁主(トッケ・オンジュ:1912.5.25~1989.4.21)。徳恵姫(とくえひめ)、李徳恵(イ・トッケ)、宗徳恵(そう・とくえ)、梁徳恵(ヤン・トッケ)とも呼ばれた。国王・高宗(コジョン:1852~1919)が還暦を迎えた年に、徳寿宮の厨房で働く下級の女官梁春基(ヤン・チュンギ)との間に生まれた。朝鮮では正室の王女を公主(コンジュ)といい、側室所生の王女を翁主(オンジュ)という。
高宗は第38代朝鮮国王(在位1863~1897)であり、清の冊封から独立した後の大韓帝国初代皇帝(在位1897~1907)である。1907年のハーグ密使事件で退位させられ皇太子の純宗(スンジョン)に譲位し、韓国併合(1910)後は帝国日本の王族となって徳寿宮李太王殿下と称した。
亡国の朝鮮王朝最後の王女である徳恵翁主は、7歳で父を亡くし、京城の日の出小学校を経て、1925年には東京の女子学習院に留学させられた。日本では周囲に打ち解けず内向的な面を見せていたが、1929年5月に母の梁春基を乳がんで失う。以後は内向的な性格に拍車がかかり不登校となり、夜は重度の不眠症で突然屋外に駆け出すなどの奇行が現われ、医師に「早発性痴呆症」(統合失調症)と診断された。
1931年に旧対馬藩主だった宗伯爵家の当主・宗武志(そう・たけゆき:1908~1985)と結婚する。
当時病気は小康状態であったたようだが、同年対馬を訪問した際には関係者の前で奇声を発して笑い転げるという挙動を見せた。1932年8月に長女正恵が生まれる。1938年頃にはかなり状態は悪かったようで、娘の相手も家人に任せていたという。1946年頃に松沢病院に入院。
1950年に韓国人新聞記者金乙漢が松沢病院に徳恵を訪問し、その現状を記事で発表。その影響もあったのか、以降宗武志と徳恵の後見者に当たる李垠(イ・ウン)夫婦との話し合いにより、1955年に協議離婚。北原白秋門下の詩人でもある武志は悲痛な別れを詩に綴った。
これと前後する時期、早稲田大学に進学した娘の正恵は在学中に知り合った鈴木昇を婿に取り、宗家を継ぐ予定であった。中学教師である昇との新婚生活を大田区で始めるが、正恵は重いうつ病となり、1956年に自殺を予告する手紙を遺して中央アルプス方面に失踪する。正恵の行方はついに不明のままで、昇との縁組は解消され、法的な死を宣告された。
徳恵翁主の帰国は、李承晩時代には受け入れられず、ようやく朴正煕時代となった1962年、帰国して韓国籍に戻ることができた。異母兄である李垠の妻である李方子(イ・パンジャ:元梨本宮方子内親王)とともに、ソウル昌徳宮楽善斎で暮らし、長らくの病臥の果てに1989年4月21日永眠。亡骸は金谷里に埋葬された。
以上が徳恵翁主という薄幸な王女の、ほぼ客観的な紹介である。梨本宮方子と結婚した李垠のほうが有名だが、異母妹の彼女のことを知る人は日韓でも少ないだろう。
これは1931年、宗武志と対馬を訪問した時の写真。
映画では、冒頭にフィクションが含まれていることを告知する。
しかしソン・イェジンが「初めて歴史に実在の人物を演じた」と語ったのは、植民地朝鮮に生まれた王女が親日派の策略に乗せられて憎き日本で不本意な暮らしを送るが、ついには独立運動に加担して上海への亡命を図るという「歴史歪曲」活劇であった。


原作は2010年にベストセラーとなった「徳恵翁主ー朝鮮王朝最後の皇女」で、權はこの映画の脚本にも参加している。この小説は未読だが、書評を読むと、この映画の問題点、出発点がかなり含まれているようだ。日帝によって強制的に日本へ留学させられ、日本人と結婚させられて、孤独の中で精神に異常をきたしていった徳恵。哀れな皇女を助け出そうとする独立運動家たち。悪辣な親日派と暴虐な日本の官憲。日帝時代を描いた勧善懲悪劇の典型だという。

徳恵翁主の幼馴染で、昼は日本陸軍少尉、夜は独立運動の闘士(!)というキム・チャンハン役にパク・ヘイル(戦後新聞記者となり、徳恵を助け出す)。
李方子役に戸田菜穂、宗武志役にキム・チェウク(日本にファンクラブもある人気俳優らしい)。
徳恵を苦しめる親日派ハン・テクスは、ユン・チェムン(憎らしいほどの悪役ぶり)。
英親王を助ける李鍝(イ・ウ)殿下役には、コ・ス。

徳恵翁主を救出し、英親王・李垠(イ・ウン)殿下を説得して、共に上海亡命を図ろうとする独立運動家たちが日本軍と激しい銃撃戦を繰り広げるという荒唐無稽な活劇に口をあんぐり。
命からがら脱出し立て籠った独立軍のアジトでも、日本軍の奇襲を受けて蜂の巣のごとく銃弾を浴びるが、最後には仕掛けた爆弾で大逆襲するなど、昨年見た「暗殺」を思い出させるような、派手な展開のあげくに、結局全ては挫折する。

敗戦後、韓国に戻れず、精神病院に幽閉され、徳恵は人々から忘れられてゆく。キム・チャンハンが朴大統領に直訴して、37年ぶりに帰国を果たすと、少女の頃宮廷で別れを惜しんだ老いた女官たちが涙で王女の帰還を迎える、というエンディング。
部分部分には史実のエピソードをちりばめ、数奇な運命にもてあそばれた朝鮮最後の王女の悲しい人生。帰国した時のシーンでは映画館内にもすすり泣きの声が・・・。

李王家(後の赤坂プリンスホテル旧館)での暮らしぶりなどは、北九州市戸畑区にある雰囲気の似た洋館を使い、一か月近くスタッフや俳優たちが滞在して撮影したという。地元の映画関係者がロケ地として誘致したそうだが、出来上がった映画の「反日」ぶりを観たら、北九州の人たちはどう思うことだろう。
「八月のクリスマス」「春の日は過ぎゆく」「四月の雪」「危険な関係」など、繊細な感覚を打ち出したヒット作で知られるホ・ジノ監督だが、この映画は、ソン・イェジン初の歴史実録映画+日帝下の独立闘争アクション活劇(あるいは反日ファンタジー)という中途半端なものになってしまった。

2016年6月22日水曜日

大邱新聞 2016年6月22日

今日の大邱新聞に、小生のインタビュー記事が載った。

http://www.idaegu.co.kr/idaegu_mobile/news.php?mode=view&num=200659







6月12日に、황인옥 ファン・イノク 記者のインタビューを受け、유관식 ユ・グァンシク 記者が撮影。

タイトルは「大邱で第2の人生を過ごす日本人 防川にハマる」

概略は、定年後の人生、大邱へ来たきっかけ、韓国で出会った人々、大学院で何を学ぶか、防川市場の魅力、これから何をしたいか等也。

2016年5月14日土曜日

韓国学科踏査会

2016年5月13日(金)

朝8時20分、晩村駅近くで韓国学科7人+哲学科1人+助教Kさんの9人が集合。マイクロバスで行くのかと思っていたら、9人乗りの大型バンのレンタカーをCさんとK助教が交代で運転するのだった。踏査会ではお決まりのビニール袋に入ったお菓子、果物、牛乳と、ミネラルウォーターを配られた。










高速道路に乗って約2時間、慶尚北道最北部の町・榮州(ヨンジュ)にある紹修(ソス)書院に着いた。紹修書院は韓国最初の賜額書院で、中宗37年(1542年)に豊基郡守の周世鵬(チュ・セブン)が、高麗末期の儒学者で最初の性理学者であった晦軒安珦(アンヒャン)を称えるため白雲洞書院を建てたことから始まった。
その後、退溪李滉が豊基郡守に赴任し、朝廷に建議して紹修書院という扁額を受けることになった。賜額書院とは国から本、土地、奴婢の下賜を受け、免税、免役の特権を持つ書院のことである。
今回の旅の幹事役であるCさんの始祖が周世鵬(1495~1554)であることもあり、ここへ来たのだが、博物館や隣のソンビ村を見学するでもなく、あっさりと次へ向かう。実はソンビ村の入口にある食堂街で昼食の予定だったらしいが、数軒の食堂がすべて工事中だったのだ。
今日は曇り空だが、まずまずの気候で、車は安東に向かった。


退溪李滉を祀った陶山書院である。韓国でも一番有名な書院といってもいいかもしれない。5、6年ぶりに来たのだが、やはり洛東江の風景と山の傾斜の中に建てられた書院群は別格の雰囲気がする。牡丹の季節が終わっていたのはちょっと残念。階段に沿って紫色の牡丹が花開くと、独特の知的空間(?)が現出するのである。



午後2時過ぎ、安東の食堂でサムギョプサル。焼酎も2杯だけ飲んでみた。
深夜少しだけ痛風の痛み。いきなり高カロリーを摂取しすぎたのか、わずか2杯の焼酎が悪かったのかは不明。

2016年5月8日日曜日

授業あれこれ(3)

木曜日   權大雄先生の「韓国現代史」が午前中にあり、善香斎で昼食のあと、午後は翌日のためのレポート書きに集中する。

金曜日  김문주/한국학자료의 이해    金文柱「韓国學資料の理解」


「新民族文学史講座」という朝鮮文学の通史を毎週100ページ読み、全員が毎週レポートを発表する。韓国学科はいま8人(韓国3、ベトナム3、中国1、日本1)。朝9時半に始まり12時半頃までかかる。今学期、一番負担の多い授業である。金先生は高麗大学出身で文芸評論家でもあり、発音は聞き取りやすく、話しぶりは明快で、熱心な授業。時調など少し朗誦すると、声も素晴らしいのである。問題なのは毎週の学生の負担が大きいこと。毎週100ページ読み、何かテーマをつかみ、レジュメを作り、発表するのは大変辛いし、うんざりしてしまうのである。


 이수환/한국학세미나   李樹愌「韓国學セミナー」


李樹愌先生は、韓国学科長、民族文化研究所長、嶺南大学博物館長であり、われわれ韓国学科の動向を左右する人なのだが、飄々として、やる気があるのかないのか、われわれに関心があるのかないのか、よくわからない。専攻は朝鮮時代の書院の研究で、歴史学、社会学、文化人類学の交差するような分野だ。
教室ではなく、博物館のセミナー室での授業。テキストは Martina Deuchler というロンドン大学名誉教授(女性)の書いた「한국 사회의 유교적 변환」(韓国社会の儒教的変化)という本だが、かなり難しいテキストなので、指名された助教や博士課程の学生が要約を作り、それを彼らが読み、ところどころ先生が解説を加える。こちらは聞いているだけで良いので、楽と言えば楽な授業である。一方で金先生のような授業があり、一方で李先生のような授業があってバランスがとれるというか、ほどほどに過ごせるというものだ。

この授業が終わると金曜日の夕方なので、数週間に一度は「マッコリでも一杯」ということになる。
メンバーはC氏、Y氏、と小生のアジョシ3人。ときどきKさんが加わる。

土曜日  「テグハル」での日本語中級クラス。日本語会話中心の授業。

18時からと19時半からとの2クラス。8人なので2クラスに分けたのだが、遅いほうのクラスの人に欠席が多いのが悩み。大学生が1人、他は20代の社会人。日本で数か月から数年暮らした経験を持つ人が多い。実力差も様々なので、毎回どんな話題にすべきかが難しいところ。

2016年5月5日木曜日

授業あれこれ(2)

火曜日    日本語作文「スタディ」

午後6時から、日語日文科の学生5人と一緒に日本語作文を教える「スタディ」。
「スタディ」とは、「自主授業」というくらいの意味だろうか。
出欠も点数もなく報酬もない、まさに自主的なサークルだ。日語日文科のC先生から依頼されて始めたが、とても面白い。
男子1名、女子4名。5人全員がそろうことはまだ1度もない。課題の作文を添削、指導。
週に1時間の作文指導では中途半端。ペーパーを配って説明をしたり、質疑応答も加えて、だんだん形になってきた。女子3人は長崎、静岡、北海道の大学に1年間交換留学で通っていた。もう1人の女子は母親が日本人。ただ1人の男子はアニメおたくで日本中旅行しているらしい。
皆、話すのはそこそこだけど、作文は1人を除いて、まだまだというレベル。


 水曜日  최재목/동아시아사상비교연구    崔在穆「東アジア思想比較研究」

この講義は、韓国學科ではなく大学院哲学科の講義。チェモク先生が10年前に日本で出版した日本語による「東アジア陽明学の展開」に加筆、増補したもの。中国語版から韓国語に翻訳したテキストが出版されたばかり。日中韓3国の陽明学思想を解説、分析したものだ。チェモク先生は日本語も中国語も堪能なので、こういう発想の本が生れた。講義は難解だが、感覚的に受け取れば良いと思っている。思想の原理原則についてこれまで考える機会も余裕もなかったので、わからないなりに面白いような気がしてきた。

水曜日 19時から20時半 テグハル 中級日本語個人授業
Kさんという20代後半の女性に個人授業。嶺南大学の工学部を卒業したあと、東京で日本語学校に1年半通ったという。亀尾(クミ)にある日系企業で働いている。会話、読み書き、まずまず平均的によくできる。夏目漱石も太宰治も知らないが、東野圭吾は好きでよく読むとのこと。ただし韓国語版。日本語の文庫を毎日少しずつでも読んでほしい。


授業あれこれ(1)

月曜日・水曜日   송휘영 /관광농업론  宋彙榮「観光農業論」

大学東門前にあるシンデリのわが風景荘から徒歩30分、キャンパスを横断して自然資源学部の教室で週に2コマ、学部の授業を聴講。宋先生は昔からの知り合いで、大学院入学の折も色々助けてもらった。「グリーンツアー」と呼ばれる、都市と農漁村の人的・経済的な交流の話。農村留学、体験農園、民泊、地産地消、等々、日本と韓国の実例を中心に講義する。学生は50名くらいで、食品自然経済学科の学生が多い。
自然資源学部というのは昔の農学部である。昔は牧場があって牛を飼ったりしていたらしいが、名称が変わり対象分野が広がり、「食品自然経済学」なんて言われてもどんな学問なのかがすぐにはわからない。授業のあとは池のそばで一服する宋先生と雑談し、車に乗せてもらって中央図書館まで戻るのがいつものパターン。宋先生は京大で資源経済学の学位を取り、十数年日本に留学したので日本語に不自由はない。所属が独島研究所なので、竹島をめぐる日韓の理論闘争の最前線にいる人でもある。



月曜日・木曜日   권대웅/한국현대사  權大雄「韓国現代史」

学部の補充授業。權先生は嶺南大歴史学科に学び、韓国学科の隣にある民族文化研究所に最近まで所属していたらしいが、今は講師として出講している。大邱近郊の出身だが、訛りはあまり感じられず、聞き取りはそう難しくはない。政治的立場はよくわからないが、解放・光復から60年代くらいまでの激動の時代をきめ細かく話してくれる。数週間に一度、講義のレジュメを大学ポータルサイトの中の「講義支援」にアップするので、それを予習していけば、大体の話は理解できる。ただ左右の政党や団体、運動が複雑に交錯する時代なので、何となく理解できても覚えるのは大変だ。登場する膨大な人物の横顔なども毎回説明してくれるのだが、小生には残念ながら消化貯蔵できるほどの基礎体力がない。
中間試験に出た問題の一つは「光復節・建国節の違いを批判的に述べよ」。1945年8月15日は「光復節」という韓国の記念日なのだが、2000年代に入ってニューライトの勢力が、「光復節」に代えて1948年8月15日、李承晩による大韓民国政府樹立を「建国節」として祝うべきだと主張し始めた問題である。韓国における大きな左右対立主題の一つで、これからの教科書国定化問題にも登場することになるだろう。


碩士課程第3学期

碩士(そくさ)というのは日本でいう修士のこと。3月から6月まで、3学期目のあれこれ。

小生のワンルームの周囲はどんどんと変わってきた。食堂、カフェ、メガネ屋、マート、コンビニ、惣菜屋etc. 新しい店がどんどん出来て、便利と言えば便利。バス路線も3本から4本になった。
若い女性2人がやっていたカフェ「MOMO」はとうとう閉店。


ある日前を通ると「賃貸売買」の紙が貼ってあった。3年前に始めた頃はこのあたりに珍しい個人経営で、ちょっと内装がお洒落なカフェだったのだが、似たような店が次々と現れ、Havana Express , 봄봄 などの人気チェーン店も出現すると、小生も含めて客足は遠のいた。
봄봄 (ポムポム)なんて、アメリカンが1000ウォン(100円)である。アメリカンの値段、MOMOは3500ウォンと、スタバ並みだった。Havana Expressは2500ウォン。どうせ似たような味だから、学生たちが嶺南大正門向かいの봄봄 に並ぶわけだ。
概してどの店も、ちょっと美味しいランチを出すとか、手作りのケーキを並べるとか、生き残るためのひと工夫ができない。何よりもコーヒーが一番の商品なのだから、美味しいコーヒーをどうやったら作れるか、出せるかを研究すべきなのだが、そんな店にはまだお目にかかったことがない。


近所に新しくできた大型スーパー。これで e-mart や Home plus へ行かなくてもよくなるかと期待したが、いわばハナマサみたいな卸し系の店で、大袋の商品を車で買いにくる客が目当てのようだ。野菜の品質は決して良くない。ニンジンを買ったら芯が腐っていた。


桜の季節から躑躅(チンダルレ)の季節に変わり、キャンパスも緑が生き生きとしてきた。4月から5月、やや寒暖差が大きな気がしていたが、薄着で寝たのが悪かったのか、ずっと風邪に悩まされている。S先生は、ふだんより夏が遅いと言っていた。例年なら子供の日の頃になると、もっと陽射しが強烈になり、猛暑に近いような感覚が出始めるのだそうだが、確かに夕方になると肌寒いような気がするのである。

2016年5月5日(木)

子供の日。今日から韓国は4連休。6日(金)を臨時休日にすることは先週急に決まった。日本では考えられないことだが、ここは韓国なのだ。4連休にして経済活性化というのが建前だが、総選挙で大敗した朴槿恵政権の人気挽回政策との観測がもっぱら。急に来週は4連休だといわれても、予定変更やら何やらで大変な面もあろうが、休日や連休の少ない韓国では臨時休日は概して好評で、前回の臨時休日の時は大統領支持率が5%も上がったという。



これは善香斎のランチ弁当。定食とお弁当の2択があり、昨日は初めて弁当を食べた。これも同じ5000ウォン也。ダイエット中の女の子が好みそうな体裁、味付けだが、定食のほうがサムゲタンぽい豪華メニューだったため、食欲がわかず、こちらにしたのである。

4月はブログを書く余裕がなかった。忙しかったのと体調を崩したためである。
授業数が多く、毎週レポートを書かねばならず、日本語を週に4クラス教えている。何も予定のない日は日曜日だけ。そのうえ2週間以上に及ぶ風邪。喉の調子が悪く、とうとう声が出なくなった。実は同じ風邪が今、再発している。そのうえ6年ぶりの痛風。韓国に来て初めて病院通いをしているのだ。尿酸値は9.7で、日本にいた頃は7~8だったから、かなり高い。マッコリと忙しさによるストレスが直接の原因だろう。もう2週間以上、禁酒している。


これは指導教授チェモク先生の新刊。箱入りで724ページ。韓国のテキストは重くて分厚い本が多く、この本も寝転がっては読めない。教室まで持参するのも大変。


P先生と学校裏の食堂(ドンドン酒が美味)に行き、教室に帰る道。大学キャンパスの中だとは思えない。

2016年3月22日火曜日

咸安(ハマン)踏査会

2016年3月20日(日)

嶺南仏教文化研究院主催の日帰りバス・ツアー。昨年何度も参加した踏査会、今年初めての旅は、慶尚南道の咸安함안 である。



南に行くので春らしい気配が感じられるかと期待したが、この日は一日曇り空で、桜や梅、レンギョウなどもあまり見られなかった。寒くはなく、最後には山登りで大汗を流すことになった。
まず、新羅時代の주리사지 사자석탑 (主吏寺地 獅子石塔)を見る。4頭の獅子で支えられている形はめずらしい。


この一帯は伽耶(かや)であり、紀元前から群小部族国家が興亡を繰り返し、弁韓、辰韓、加羅、任那、金官、など様々な名前で呼ばれた地域である。6世紀末に新羅が統一するまで伽耶は存続した。古代から、この地域は日本との交流が盛んであり、共通の土器や墓も数多く発掘されている。
この博物館のある場所も咸安郡伽耶邑であり、伽耶の名は至る所に残っている。


咸安道項里・末山里古墳群。阿耶伽耶(アヤカヤ)の王たちの墓と考えられる古墳が100余基分布している。


「お墓に登っていいの?」とためらう人もいたが、慶州とは違い、ここは問題ないらしい。


懐かしいポップコーン機械。何と言ったかしら?



市場を歩く。昔ながらの風景だ。海が近いので海産物も多い。咸安はスイカが有名だとか。


昼食は辛い汁に固い牛肉ともやしが入っているだけのもの。昼時で食堂は賑わっていたが、かなり田舎料理である。



院長の金在元先生の説明を聞く。中高年の会員が多く、子供連れも二組ほど。これは大山里石仏で、高麗時代のものだという。


この日のハイライトは防禦山磨崖仏三尊像(방어산 마매불 삼존상)の見学のための山登りであった。少し登れば見られると思ったら大違いで片道30分以上、いやもっとだろうか、突然急な階段を、休み休み、必死で登らなければならない。ツアーの半数くらいの人は途中で脱落した様子だった。



これは登る前の入口付近。


よく見ると、三尊仏まで470メートルと書いてある(泣)。




ようやく辿り着いた磨崖仏。新羅・哀荘王(エジャンワン)2年(801)に造られた磨崖薬師如来像と両脇の日光菩薩、月光菩薩だそうだが、気息奄々、苦しんで登ってきた割には、有難味があまり感じられない平板なものであった。

この後は、朝鮮中期の書院・古家を訪ねたものの、事前連絡なしに行ったので門に鍵がかかっていて入れなかったり、長春寺という寺を探しても見つからなかったので、代わりに崖の古層に鳥の足跡が化石になっている名所を覗いたりと、韓国らしい、少々いい加減な観光があって大邱に戻った。
観光バスにGPSがついているのはまだ見たことがない。運転手が道を間違えるのもたびたびだが、皆そのへんは気にしないというか、おおらかというか、こんなもんだと思っているのか。

とはいえ、色々お土産をもらったり、なぜか表彰(?)されたり、スピーチさせられたりと、一人の外国人の参加にも皆さん親切である。知人も増えてきて、また機会があれば踏査会に参加したいものだと思っている。