松林寺 大邱・八公山(パルコンサン)にある名刹

2014年5月31日土曜日

5月末の真夏日

2014年5月31日(土)
日本でも韓国でも、早くも猛暑が始まった。
5月26日(月)、家人と釜山へ。東横イン泊。日本式の100Vコンセントがあり便利也。翌日、東莱ハルメパジョンで昼食。


これは大中小の中で、30000ウォン。チジミ(パジョン)にしては高いが、この水準なら納得。ふわっとトロトロのチジミは他では食べられない。ドンドンジュも上品で美味だった。二度目の訪問だが、なかなか見つけられない場所にあるのが難点。







家人は大邱に2泊。中央路近くのノボテル・アンバサダーは大邱で一番か二番の高級ホテルで、初めて小生も泊まってみたが、客室やサービスなど、文句のないレベル。大邱にもこういう世界があることを初めて体験。agodaでは1泊15000円くらいだったからリーズナブルかも。
28日(水)は、L先生ご夫妻の車で慶州観光。大陵苑、雁鴨池、武烈王陵、国立慶州博物館などを見学。家人が歩き疲れたので、石窟庵や佛国寺は次の機会ということになった。
29日(木)は、KTXでソウルへ。ウェスティン朝鮮ホテルで、名古屋からやってきた娘と合流。



家人と娘はウェスティン泊。小生はメトロホテル泊。家庭内格差は前回同様(前回2人は新羅ホテル泊)だが、10年来投宿してきた明洞のメトロホテルもリニューアルが終わり、かなりのレベルアップ。


1階にはスタバが入り、フロントは1Fから9Fに。朝食も2人のスタッフが世話をしてくれて簡素ながら不足はない。客室も相当に良くなった。部屋数が少ないので団体客などはいないし、便利で安いから日本人のリピーターが多い。しかし小生の泊まるシングルの料金は、この10年で60000ウォンから110000ウォンへと、約2倍になった。ちなみにウェスティンはagodaでも1泊30000円から40000円くらい。朝食代金は1人5000円(!)とか。


これはハプチョンにある보리울という食堂のポリパブ(麦ごはん)。各種野菜ビビンバで、素材が新鮮、美味。7000ウォン也。女性に人気の店らしい。昼時だったので賑わっていた。
このあと家人と娘は江南、東大門市場など楽しんだらしいが、小生は大邱へ戻った。
大邱でもソウルでも強烈な陽射しで、日傘を差し、汗をふきながらの毎日。これからの夏本番が思いやられる。家人と娘は土曜日の夕方、東京と名古屋に戻る予定。

2014年5月17日土曜日

2014年5月17日(土)

大邱はようやく盆地らしい暑さが始まりつつある。蒸し暑さはまださほどではない。
昨日で、語学堂の春学期は授業終了。来週の月火で期末試験があり、水曜日にはいったん帰国の予定。





これは先週の日曜日にあった日本人女性Yさんと韓国人Pさんの結婚式の様子。Yさんは同じ語学堂で学んでいる女性で、イギリス留学中に知り合った蔚山の男性とゴールイン。初めて韓国の結婚式に参加したが、式自体は格別変わったことはなかった。日本ほど細かなところまで神経質ではなく自然な流れにまかせての進行。牧師役を新郎の父が行ったのは珍しいとか。結婚式場はサッカー・ワールドカップのスタジアムに隣接した大きな施設で、この日は吉日らしく多数の結婚式が行われていた。宴会場はビュッフェで出入り自由、隣の人が誰の結婚式の参列者なのかはわからない。新郎新婦はあとで韓服に着替えて会場に挨拶に来たらしいが、時間がかかったとかで、結婚式の参列者はほとんど残っていなかったという。小生も一緒に来た中国人のB君と早めに帰ったあとだった。ちなみにお祝い金は5万ウォンを袋に入れて受付に渡した。






春学期の感想は、とにかく勉強は質も量も増え、辛かったというのが正直なところだが、一応皆勤賞。中国人、アラブ人、ウズベク人の若者たちとの交流はほどほど。20歳そこそこの学生たちはなかなか個性的で、カカオトークやfacebookの友達になった人もいるが、前学期のネパール人k君のように一緒に休日に出かけたり、ご飯をよく食べたりするような仲にはなれなかった。担任のビョン先生からは家庭菜園で採れた野菜などを時々もらった。



嶺南大学C先生の主催した「恩師の会」。5月15日は先生に感謝する日で、語学堂でも先生へのプレゼント(カーネーションやケーキなど)がやりとりされていた。C先生の恩師と弟子、後輩たち20名ほどが集まって焼き肉を食べたが、2時間ほどのあっさりとした集まりだった。



試験に備えて、勉強……。やる気と根気が続かず、それがいちばん辛い。午前中の授業の時には頭も冴えて知的好奇心もあるのだが、午後になり、夕方になり、夜になるとガクッと意欲が落ち、勉強する気持ちが萎えてしまう。毎日この繰り返しだった。




2014年5月3日土曜日

連休はじまる

2014年5月2日(金)

日本では飛び石GWの最中だが、韓国では明日からの4日間が黄金連休。
4月16日に珍島沖で旅客船セウォル号が沈没してから2週間余りが過ぎた。今日の時点で死亡者228名、行方不明者74名、救助者174名。テレビをつけると連日この事故の報道一色で、芸能やバラエティ番組の自粛が続いていたが、このところやや元に戻りつつあった。女性キャスターやお天気お姉さんの服も次第に明るい色に戻ってきたところに、今日のソウル地下鉄衝突事件(負傷者240名)が起きた。沈鬱な空気が少し薄れ始めて、さあこれから連休という気分に水を差されたような感じだ。


「セウォル号行方不明者皆様の無事帰還と犠牲者皆様の冥福をお祈りします」これは今日行ったEマートの入り口に掲げられていた横断幕。

先週(4月21日〜25日)は体調が悪かった。鼻水が止まらず、目もチクチクと苦しかった。ビョン先生の夫(カナダ人)も鼻炎がひどいらしい。Kさんも咳が続き喉の調子がずっと悪いという。
2月から3月、初めて韓国でこの季節を過ごし、杉花粉から逃れて快適だったのだが、4月末になってのこの症状、どうやら韓国の松の花粉のせいらしい。韓国には杉はほとんどないが、その代わりあらゆるところに松が植えられている。それに加えて中国から飛んでくる黄砂や微小粒子スモッグ(こちらではモンジという)も関係があると思う。

4月27日(日) Kさんに誘われて民博会のバス・ツアーに参加した。民博会というのは韓国の歴史や文化を学ぶ民間サークルのようなものらしいが、よくわからない。この日は第45回の集まりだとかで、半年ぶりくらいの日帰り小旅行。Kさんが所属する書道会の主催者C先生が最近まで会長を務めていたらしく、C先生をはじめ見覚えのある書道会の人が数人。他には大学の先生、会社員、学生、主婦など、顔ぶれは様々で、貸切大型バスに乗って約30人くらいのイベント。参加料は50000ウォンで、資料、おやつ、昼食代込みで、至れり尽くせりの準備、運営だった。解説ガイド役で慶北大学の教授も加わっている。


この日は曇り空で体調はまずまずだったのだが、夕方になると目が痒くなり鼻水も出てきたので、やはり松花粉症と見て間違いないだろう。このあと3日間は雨が降り続き、花粉が飛ばないので症状がぴたりと治まった。スギ花粉と全く同じである。
慶尚南道宣寧郡(의련군 ウィリョン)は大邱からバスで南に1時間、馬山や晋州に近い田舎である。このような山に囲まれた、田畑ばかりの穏やかな地域。闘牛でも知られており、牛肉のクッパが名物。今日はこの地域にある歴史上の人物の生家を訪ねるという踏査旅行だという。



まずこれは安煕済(안희제 1885~1943)の生家。アン・ヒジェは独立運動家で雅号は白山。
釜山で「白山商会」を設立して穀物・海産物などを扱い、独立運動の拠点となった。国内外の独立運動を支援し、教育や言論の分野などでも、多彩な活動を行い、 釜山には記念館がある。投獄され、病身保釈のあと、1943年に死亡。拷問の結果だという記述も見かけた。


実は、このような記述は後日、調べて書いており、当日の慶北大学教授の解説などは、ほとんど聞き取れなかったのが正直なところ。皆思い思いに記念写真を撮ったりしながらの古家訪問ツアーである。







これは郭再祐(곽제우 1552~1617)の生家。カク・チェウは壬辰倭乱で義兵を率い倭敵を撃退したという、歴史上の人物。ずいぶんきれいに整備されていると思ったら、この将軍は宣寧郡のマスコット・キャラクターになっているほどで、この地方の英雄なのであった。大邱にも楠木正成みたいな銅像が建っているらしい。

最後は、李秉喆(이병철 1910~1987)の生家。イ・ビョンチョルはSAMSUNGの創業者。まあ、松下幸之助の生家、といったところか。25年前に亡くなったが、遺族たちがいまだに裁判を続けているほどの巨大な財閥を築いた。早稲田大学に学んだあと、1938年に大邱で三星商会を起こしたのがサムスンの始まり。製糖、繊維、機械、電子、船舶、金融など、韓国最大の巨大グループとなった。今これを書いているパソコンも、写真を撮った携帯電話も、サムスン製品。







これらの生家は皆風水が良く、そのおかげで立派な人物が育ったということになっている。このサムスン創業者生家の東側には岩壁があり、ここから気のエネルギーが発生し、この岩に触れば金持ちになれる、というので、観光客たちはここで記念写真を撮っている。




この生家前の道も、歩けばお金持ちになれる、ということで人気があるそうな。

この日は夕方から少し雨になり、翌月曜日から水曜日まで、丸3日間、まるで梅雨に入ったような雨が続いた。

今回の参加者の中に金埈星 김준성 さんという人がいて、「私の先祖は日本人です」と話しかけてきた。金忠善(沙也可)から14代目、体育館の館長さんで40代後半くらいだろうか。沙也可の子孫と話すのは初めて。Kさんも初めてそういう人に会った、と驚いている。「ハラボジ(金忠善のことをこう呼んでいた)の家族は皆殺されてしまっただろう。だから日本の故郷はわからない。ハラボジは平和を求めていた。秀吉を裏切ったけれど、日本を裏切ったわけではない」概略、そんな話をしてくれた。小生は、色々な説はあるけれど、加藤清正の配下だったのは確かだから、九州の熊本、阿蘇氏の人だったと、F先生の説を受け売りで話す。今度、機会があったら大邱市内で一緒に酒を飲んでみたいものだ。あなたのハラボジのおかげで小生は大邱に住んでいます、と言ったのだが、理解してくれたかどうか…。