松林寺 大邱・八公山(パルコンサン)にある名刹

2010年10月30日土曜日

2010年10月30日(土)

朝、珈琲をいれようとアルミの袋の封を切ると、豆のまま…。台風が近づき、夜半から雨だが、こちらに着いた昨日の朝ほどの寒さではない。
「月舎」で、鴨汁そば、山かけそば。リゾナーレへ。やはりウェディングドレス姿を撮影中の女性がいた。打ち合わせにきた数ヶ月前、まさか10月末の今日がこんな大雨とは予想もしなかったであろう。丸山珈琲で豆を挽いてもらい、Books&Cafeなどに寄り、「きららシティ」と「ひまわり市場」で今夜と明朝の食料等を買って帰宅。家人は「ひまわり市場」のほうがずっと良いという。野菜はもちろん、魚介類が豊富で新鮮。富山直送鱒寿司なども並んでいた。
一休みしてから雨の中「高根の湯」へ。この近辺にはいくつかの温泉があるが、小生はここが気に入っている。地元の人しか来ないので空いている。座敷があってのんびりできる。露天はないが浴槽が広々としていて、景色が良い。晴れた日は富士山が眺められる。お湯もまあまあ。家人も満足したようだ。
台風は関東を直撃せず、房総半島をかすって、太平洋の方へ抜ける模様。
夏に来たときに冷蔵庫に残しておいたスプマンテをちびちび飲みながら、夕食。焼き鳥、サラダ各種、シメサバ、ヒラメ、太巻き寿司。

カフェ明治学校


2010年10月29日(金)

朝4時40分自宅を出発。7時長坂着。大泉のYさん宅に今日から6日間滞在する予定也。セコム、水道、電気、ガスなどをチェックしてから簡単な掃除をする。荷物を運び込み、PC(無線LAN)がつながることも確認する。台風が近づいているので気が重かったが、とりあえず晴れており、八ヶ岳の稜線がはっきりと見える。
小淵沢駅へ行き、家人は11月1日朝10時発の「あずさ」新宿行きの切符を購入。駅の立ち食いそば屋で「野沢菜天ぷらそば」。この店の蕎麦は毎回八ヶ岳に来るたびに楽しみにしている。リゾナーレの丸山珈琲へ。ピーマン通りの蔦の紅葉が美しい。「ひまわり市場」で買い物をしていったん帰宅。
午後、「おいしい学校」へ。須玉歴史資料館(旧津金学校藤村式校舎)内にある「カフェ明治学校」でランチ。八ヶ岳アウトレットに寄って、一日が終わる。さすがにアウトレットもがらがらであった。

2010年10月4日月曜日

2010年9月21日(火)

朝5時にホテルをチェックアウトし、6時8分発のKTXでソウルへ。ぐっすり眠る。8:00ソウル着。雨。タクシーで金浦空港まで約30分、2万ウォン。カウンターへ行くと、JL92便でなく、その前のKE2707便に乗れと言われる。韓国の女性の強引さに、言われるがままに、あっという間に羽田へ。お昼前に帰国してしまった。

以上、慣らしブログ第一弾でした。

2010年9月20日(月)

夜は雨だった。
朝食では、ホテルのオーナーである河さんの故郷(智里山の近く)から送られてきた栗を食べる。河さんにNHK-BSを見られるようにしてください、と要望。河さんは昨年まで東京・白金に十数年住んでいたが、お父上が老齢になり、韓国に戻ってホテルを継いだという女性。50歳くらいだろうか。息子は香港にいるという。
秋夕のため、釜山からの飛行機は空席待ちのままらちが明かず、あきらめる。JALに電話し、金浦 → 羽田行の飛行機があるというので、それに変更。
地下鉄沙月からタクシーでR大学。今週はずっと休みなので、学生の姿は少ない。中国研究センターのF先生を訪ねる。大学内を散歩。食堂でテジチゲ2人前7000ウォン也をご馳走になる。蒸し暑い! F先生は週末にある沙也可研究会の準備に忙しい。来年3月からは日本語を教える授業も受け持つことになる由。再会を約して市内へ戻る。

午後、Lさん、CFさんと大邱駅の北部にある「天使館」という建物へ。これはまあ、ヤマダ電気と大塚家具と結婚式場が一緒になったような巨大な建物で、2Fにある「コンピュータープラザ」という店に。Lさんの知人が経営するサムスンの代理店。ここで、最新式のノートパソコン(SAMSUNG SENS Q230)を購入。今もそれでこのブログを書いている。130万ウォン也。クレジットカードの請求額は9万7000円くらいだった。

Lさん、CFさんとキムチチゲを囲んで、お別れ。今回も大変お世話になりました。昨日、高霊に連れて行っていただいたCCさんは今頃ソウルに向かっている。CCさんの二人の息子はソウルで検事と医者をやっており、秋夕はソウルの息子の家で迎えるのが慣わしとか。

2010年10月2日土曜日

2010年9月19日(日)

今日は初めてCCさんの車に乗せてもらう。同じ80ウン歳のお年寄りでも、Lさんの慎重・的確な運転とは大違いで、道は間違えるは勝手なところでノロノロ走るは、ウィンカーは出しっぱなしだは、と助手席の小生は冷や汗もの。途中、乱暴な韓国の運転事情を垣間見るような、あちらでガシャン、こちらでガツンと2回も交通事故を見かける。それでもCCさんでも何とか運転して目的地に着けるのだから、小生も韓国に住むようになったら車の運転をしてみようかな…

大邱から南へ約1時間、高霊(コリョン)にある「大加耶博物館」訪問が今日の目的。加耶とは、3世紀から6世紀にかけて洛東江流域にあった小国家群で、562年に新羅に併合されることで加耶時代は終わる。この地域の発掘調査は1970年代以降に始まったばかりで、日本列島全域で見つかる装身具や馬具はこの地域で生産されたものであることが確認されるなど、古代の日朝関係の交易がさかんであったことが明らかになった。

大加耶博物館では、韓国で最初に確認された殉葬墓である池山洞44号墳の内部を再現し、殉葬制度や墓の特徴を原寸大で見ることができる。王の名前はわかっていないが、王の周りに家来やその一族が数十人殉葬されている様態が興味深い。ガイドの聞さんによると、殉死と殉葬は違うのだそうだ。殉死は乃木大将のように家臣が切腹して王の死に続くこと。殉葬というのは女も子供も無理やり殺されるのだそうだ。王が暮らしていたときと同じような人々(家臣、奴隷、女、子供)を殺して同じ墓に埋め、王が来世でも同じような暮らしをできるように配慮するということらしい。殺された証拠に、遺骨の頭蓋骨に穴が開いていたりするそうだ。

任那日本府の問題や加耶の時代などについては、現時点で、初心者の小生には正直いって手に余る。大邱に住んで、自然に少しずつ関心を深め、現地を訪ねて、思ったことを書いていきたい。
「大加耶博物館」の係員が「お土産に」といって、発掘品の杯のレプリカをプレゼントしてくれた。日本人はまだ珍しいのだろうか?

大加耶博物館

高霊郡池山里にある大加耶博物館と池山洞古墳群

2010年10月1日金曜日

ディアスポラ(その続き)

9月17日の夜、沙也可の話から、「アラジン」でC教授が「最近、ディアスポラに関心があって…」という展開になる。文禄・慶長の役で加藤清正配下の武将・沙也可が投降し、金忠善となったという伝承が現在の鹿洞書院につながっている。ちなみにF先生は沙也可研究会を主宰し、沙也可は阿蘇氏の一人であるという観点から調査を進めている。

小生が大邱を訪ねるようになったのは、宮本徳蔵氏の小説「虎砲記」を読み、金忠善の子孫が金海金氏となり、鹿洞書院を中心とした村に住んでいるという物語に魅かれたことがきっかけだった。
大邱を初めて訪ねたのは、2007年の年末だった。記念館を見せてもらうと、展示の仕方も建物も少々お粗末で、失望したのを思い出す。夏場は日本人が乗った観光バスが止まることもあるそうだし、紀州・雑賀説(神坂次郎氏が提唱)が政治家がらみ(経済と観光)で大手を振り、伝承の検証と史実の探求、現実の子孫たちの思惑とは微妙にずれや歪みをもたらしている。

C教授に、小生が10年前に訪ねた、セビリア郊外にあるコリア・デル・リオという村の話をした。支倉常長の遣欧使節団の中で6~8人が帰国せず、スペインに残り、現地で結婚しハポン(日本)という姓を名乗るようになった。コリア・デル・リオには、800名以上のハポン性を持つ人々が住むそうだ。何人かのハポンさんに会ったが、金髪あり、アラブ風あり、東洋系の名残りは感じられなかった。でも時々蒙古斑を持つ赤ん坊が生まれるという。

約400年という歴史を持つ「ディアスポラ」の人々として、遣欧使節団の末裔たちと金忠善の末裔たちとは共通するものがあるのではないか。コリア・デル・リオの伝承については、逢坂剛『ハポン追跡』、宮本徳蔵『スペイン侍』『米の島』という小説がある。

しかしまあ、「ディアスポラ」という概念はいくらでも拡大解釈ができ、ずいぶん便利で恣意的に使えそうである。「漂泊」とか「デラシネ」という言葉に近い、文学的で安易な広がり方をするのではないだろうか。例えばスターリンによってサハリンから中央アジアに強制移住させられた朝鮮人などには、その言葉が適切なような気がするが、金石範氏の文脈における「在日」=「ディアスポラ」というのは、小生には強引にすぎるのではないかと思えて、ちょっと抵抗を感じる。

ディアスポラ(続)

ディアスポラδιασπορά、英:Diaspora, diaspora)とは、(植物の種などの)「撒き散らされたもの」という意味のギリシャ語に由来する言葉で、元の国家や民族の居住地を離れて暮らす国民や民族の集団ないしコミュニティ、またはそのように離散すること自体を指す。難民とディアスポラの違いは、前者が元の居住地に帰還する可能性を含んでいるのに対し、後者は離散先での永住と定着を示唆している点にある。(Wikipedia)

金石範『国境を越えるもの』(2004 文藝春秋刊)より
「ディアスポラ」というのはもともとユダヤ人の代名詞でありまして、二千年来の歴史があるんですが、このごろは「越境者」や「越境的なこと」に対して「ディアスポラ」がよく使われるようです。在日朝鮮人はこの新しい横文字の表現で言うと「ディアスポラ」なんですよ。「ディアスポラ」の背景には、自らすすんで移民するというのではなく、いろんな権力、政治的な抑圧がある。ユダヤの場合は、国がローマに滅ぼされて散り散りになってから二千年が経つわけですけれども、「在日」は日本の帝国主義によって結局「ディアスポラ」の運命に追い込まれた。中国にいま二百万人くらい、世界に五百万人くらいの朝鮮人がおります。すべて日本の帝国主義が原因というわけではありませんが、特に在日朝鮮人の場合に限っていえば、戦時中は百六十万人の強制連行があったわけですが、それだけを取ってみても在日朝鮮人は「ディアスポラ」以外のものではありません。

ディアスポラ

沙也可(金忠善)の村にある鹿洞書院