松林寺 大邱・八公山(パルコンサン)にある名刹

2015年12月10日木曜日

六臣祠(ユクシンサ)

2015年12月10日(木)




すっかり冬になり、霧がたちこめる朝もある。

大学院の授業は12月7日(月)で終わったが、まだ学部の補充授業と試験が残っている。
今日は一日雨だったが、Yさんに誘われて達城郡河浜面にある「六臣祠」に行ってきた。
六臣祠は、5月26日、初夏の暑さの中、訪ねたことがあった。
その時には、以下のように書いている。


死六臣(しろくしん)は、李氏朝鮮時代前期、世祖によって王位を追われた端宗の復位を図って鞭打ちの拷問の後、凌遅刑(牛裂きの刑)で処刑され、後年忠臣として顕彰された6人の政治家。
である。のちに朝鮮王朝で士林派が台頭し、名分論に基づいて世祖の権力掌握が簒奪と見なされるようになると、これに抗して忠義に殉じた臣下たちが顕彰されるようになり、端宗復位事件で処刑されたうちの主要な6人が「死六臣」として讃えられるようになった。
かれらは忠節を尽くして非命に倒れた悲劇の主人公として人気が高く、現代でもテレビの時代劇ドラマの題材となる。(Wikipediaより)

この土地に死六臣の面々は、それほど関係ないようなのだが、「忠臣蔵」のように有名な話であり、全国にこのような顕彰碑やら施設・建物があるらしい。
朴彭年という人物と、この地方の朴氏と、朴正煕大統領と、何か関係があるらしいのだが、小生の知識と語学力では未だわからず。






半年ぶりに、その疑問が解けたので、書いておくことにする。

朴彭年が処刑された際、父親、4兄弟、息子3兄弟も皆処刑された。母親、妻、弟嫁、嫁は皆奴婢となる。2番目の息子の妻は実家に近い大邱にいて妊娠中だった。男が生れれば処刑、女が生れれば奴婢となるはずだった。
生れたのは男の子だったが、同じころに女の召使が女の子を生んだ。密かに子供を取り換えて育てたので、男の子は助かり、外祖父の手で「朴婢」として育てられた。
やがて朴婢は上京し、成宗から赦免されて戻り、跡継ぎのない母の実家の財産を相続してこの村(ミョルゴル)に定着した。
彼が死六臣の6家門の中で、唯一家系を継いだ朴彭年の孫、朴一珊である。

その子孫たちが節義廟という祠堂を建て、祖父を尊び祭祀を続けていると、曾孫の継昌の夢の中で6人の先生がうろうろしていた。これを機に他の5人の祭祀も共に行うことにしたのだという。






現在の「六臣祠」は、朴正煕大統領時代に「忠孝偉人遺跡整備事業」で補修・新築され、大邱市の文化遺跡ともなった。約30戸の子孫たちがこの村で暮らしている。朴正煕も、同じ順川朴氏が本貫なのだという。

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