松林寺 大邱・八公山(パルコンサン)にある名刹

2014年5月3日土曜日

連休はじまる

2014年5月2日(金)

日本では飛び石GWの最中だが、韓国では明日からの4日間が黄金連休。
4月16日に珍島沖で旅客船セウォル号が沈没してから2週間余りが過ぎた。今日の時点で死亡者228名、行方不明者74名、救助者174名。テレビをつけると連日この事故の報道一色で、芸能やバラエティ番組の自粛が続いていたが、このところやや元に戻りつつあった。女性キャスターやお天気お姉さんの服も次第に明るい色に戻ってきたところに、今日のソウル地下鉄衝突事件(負傷者240名)が起きた。沈鬱な空気が少し薄れ始めて、さあこれから連休という気分に水を差されたような感じだ。


「セウォル号行方不明者皆様の無事帰還と犠牲者皆様の冥福をお祈りします」これは今日行ったEマートの入り口に掲げられていた横断幕。

先週(4月21日〜25日)は体調が悪かった。鼻水が止まらず、目もチクチクと苦しかった。ビョン先生の夫(カナダ人)も鼻炎がひどいらしい。Kさんも咳が続き喉の調子がずっと悪いという。
2月から3月、初めて韓国でこの季節を過ごし、杉花粉から逃れて快適だったのだが、4月末になってのこの症状、どうやら韓国の松の花粉のせいらしい。韓国には杉はほとんどないが、その代わりあらゆるところに松が植えられている。それに加えて中国から飛んでくる黄砂や微小粒子スモッグ(こちらではモンジという)も関係があると思う。

4月27日(日) Kさんに誘われて民博会のバス・ツアーに参加した。民博会というのは韓国の歴史や文化を学ぶ民間サークルのようなものらしいが、よくわからない。この日は第45回の集まりだとかで、半年ぶりくらいの日帰り小旅行。Kさんが所属する書道会の主催者C先生が最近まで会長を務めていたらしく、C先生をはじめ見覚えのある書道会の人が数人。他には大学の先生、会社員、学生、主婦など、顔ぶれは様々で、貸切大型バスに乗って約30人くらいのイベント。参加料は50000ウォンで、資料、おやつ、昼食代込みで、至れり尽くせりの準備、運営だった。解説ガイド役で慶北大学の教授も加わっている。


この日は曇り空で体調はまずまずだったのだが、夕方になると目が痒くなり鼻水も出てきたので、やはり松花粉症と見て間違いないだろう。このあと3日間は雨が降り続き、花粉が飛ばないので症状がぴたりと治まった。スギ花粉と全く同じである。
慶尚南道宣寧郡(의련군 ウィリョン)は大邱からバスで南に1時間、馬山や晋州に近い田舎である。このような山に囲まれた、田畑ばかりの穏やかな地域。闘牛でも知られており、牛肉のクッパが名物。今日はこの地域にある歴史上の人物の生家を訪ねるという踏査旅行だという。



まずこれは安煕済(안희제 1885~1943)の生家。アン・ヒジェは独立運動家で雅号は白山。
釜山で「白山商会」を設立して穀物・海産物などを扱い、独立運動の拠点となった。国内外の独立運動を支援し、教育や言論の分野などでも、多彩な活動を行い、 釜山には記念館がある。投獄され、病身保釈のあと、1943年に死亡。拷問の結果だという記述も見かけた。


実は、このような記述は後日、調べて書いており、当日の慶北大学教授の解説などは、ほとんど聞き取れなかったのが正直なところ。皆思い思いに記念写真を撮ったりしながらの古家訪問ツアーである。







これは郭再祐(곽제우 1552~1617)の生家。カク・チェウは壬辰倭乱で義兵を率い倭敵を撃退したという、歴史上の人物。ずいぶんきれいに整備されていると思ったら、この将軍は宣寧郡のマスコット・キャラクターになっているほどで、この地方の英雄なのであった。大邱にも楠木正成みたいな銅像が建っているらしい。

最後は、李秉喆(이병철 1910~1987)の生家。イ・ビョンチョルはSAMSUNGの創業者。まあ、松下幸之助の生家、といったところか。25年前に亡くなったが、遺族たちがいまだに裁判を続けているほどの巨大な財閥を築いた。早稲田大学に学んだあと、1938年に大邱で三星商会を起こしたのがサムスンの始まり。製糖、繊維、機械、電子、船舶、金融など、韓国最大の巨大グループとなった。今これを書いているパソコンも、写真を撮った携帯電話も、サムスン製品。







これらの生家は皆風水が良く、そのおかげで立派な人物が育ったということになっている。このサムスン創業者生家の東側には岩壁があり、ここから気のエネルギーが発生し、この岩に触れば金持ちになれる、というので、観光客たちはここで記念写真を撮っている。




この生家前の道も、歩けばお金持ちになれる、ということで人気があるそうな。

この日は夕方から少し雨になり、翌月曜日から水曜日まで、丸3日間、まるで梅雨に入ったような雨が続いた。

今回の参加者の中に金埈星 김준성 さんという人がいて、「私の先祖は日本人です」と話しかけてきた。金忠善(沙也可)から14代目、体育館の館長さんで40代後半くらいだろうか。沙也可の子孫と話すのは初めて。Kさんも初めてそういう人に会った、と驚いている。「ハラボジ(金忠善のことをこう呼んでいた)の家族は皆殺されてしまっただろう。だから日本の故郷はわからない。ハラボジは平和を求めていた。秀吉を裏切ったけれど、日本を裏切ったわけではない」概略、そんな話をしてくれた。小生は、色々な説はあるけれど、加藤清正の配下だったのは確かだから、九州の熊本、阿蘇氏の人だったと、F先生の説を受け売りで話す。今度、機会があったら大邱市内で一緒に酒を飲んでみたいものだ。あなたのハラボジのおかげで小生は大邱に住んでいます、と言ったのだが、理解してくれたかどうか…。

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