松林寺 大邱・八公山(パルコンサン)にある名刹

2015年10月11日日曜日

2015年10月9日 ハングルの日

朝8時58分、KMさん(ハルピン出身の中国人女性。7年前に大邱に来て結婚し、韓国籍に。博士課程在学中、1女の母。30歳くらい?)からの電話で目を覚ます。
ふだんなら6時か7時に自然に目を覚ますのだが、なぜかこの日の朝は熟睡中。9時にKFCの前で待つという約束だったのに、不覚にも寝坊!



この日は「韓国學現地調査」の講義を受けている金在元先生(嶺南仏教文化研究所所長)の車で慶州に行く約束だった。
あわてて顔を洗い髭をそり、昨夜にわか勉強した資料を持って大学路に出る。KMさんの韓国語と小生の韓国語で必死で電話しながら連絡を取り合うのだが、そのもどかしいこと! 緊急の場合のコミュニケーションが外国語ではいかに難しいか、冷や汗たらたら。結局30分遅刻で、無事金先生の運転する4WDに乗り込む。










金先生は70歳くらいだろうか、マニュアルの4WDを運転しながら、目に入る土地の歴史の説明、今日の予定、あれこれの話題、携帯に電話がかかってきたり、かけたり、慶州へ向かうガタガタ高速道を100キロくらいで走らせながら、しゃべり続けるものだから、こちらは聞き続けるだけで大変だし、安全運転とはとても言えないハンドルさばきで気が気ではない。まあ、この車で全国走り回っているのだから、慣れたものなのだろう。

この日は慶州の瞻星台(チョムソンデ)芝生広場で行われる「慶州新羅音祭り」に参加するのである。国宝である聖徳大王神鐘(エミーレの鐘)を中心に行われるお祭りで、10月8日(木)から11日(日)の4日間、大邱BBC仏教放送などが主催する。始まってからまだ4年という祭りだが、今日はハングルの日で祝日、天気も良く、多数の家族連れやカップル、団体などで広場はにぎわっている。 


今日のわれわれは、この「エミーレ主祭館」で、見学客たちに解説や通訳をするのだという。小生は日本語通訳、KMさんは中国語通訳という名札を首からかけて、準備万端、エライことになった。
展示内容は、新羅時代の梵鐘の模型が6つ、その1つが聖徳大王神鐘(エミーレの鐘)である。そのほかに「エミーレの鐘」の説明パネルやビデオなど。
金先生は専門家だから何を聞かれても自由自在、テレビや新聞の取材、お偉いさん(教育部の役人や仏国寺の高僧など)来訪時の解説など。小生とKMさんはその時に挨拶したり、握手したりはするものの、この日、実際には日本人や中国人の観光客は現れず、子供の相手をしたり、韓国人の簡単な質問に答える程度だった。
だいたい、新羅時代の梵鐘の違いなど、専門的すぎて誰もわからないのだ。「韓国學現地調査」の講義では、その梵鐘について、中国では、日本では、何々王の時代には・・・と学んでいるのだから、あまりにもマニアックな世界、学問である。

実物のエミーレの鐘は国立慶州博物館の前庭にあり、慶州観光の目玉の一つとして、あまりにも有名だ。


聖徳大王の事績を讃え冥福を祈るこの梵鐘は高さ333センチ、直径227センチの巨大な鐘で、デザイン、装飾文様の素晴らしさ、音の良さ、等々、新羅時代のみならず、当時の東アジア全体を見ても特筆すべき傑作なのだそうだ。(新羅時代の梵鐘は世界に9つしか現存しておらず、そのうち4つは日本にあることを知った) 
聖徳王の死は737年、鐘が完成したのは孫の恵恭王時代の771年だから、鋳造に34年もかかっているのだ。失敗に失敗を重ね、ついには幼い子供を犠牲にして完成し、その音は「エミーレ」(お母さん)と悲しく聞こえたというのが、この鐘の伝説である。
インターネットにも日韓の観光ガイドにも、あらゆる場所でこの話は繰り返し現れ、定説となっている。実際、このお祭りも「エミーレ展」が通称であり、「エミーレ主祭館」の解説アニメでも可哀そうな子供の話が涙を誘う。
しかし金先生は「エミーレ」の伝説は日帝時代に創られた話ではないかという説だ。それ以前の史料に「エミーレ」の話がないからだ。「三国遺事」には、エミーレの原型ではないかと思われる、子供を土に埋めると石鐘が現れたという話があるそうな。










夜になると、広場に作られた慶州の歴史や仏教説話を表した「ねぶた」のような人形がライトアップされた。特設ステージでは歌や踊り、お坊さんの説教などが続く。穏やかな秋の一日で、多くの人たちでお祭りは賑わっていた。

[中央日報 2010年9月12日の記事より]

  国立慶州(キョンジュ)博物館は1998年、国宝29号 聖徳(ソンドク)大王神鍾の構成成分を分析した。その結果、明らかになった主材料は銅(85%)と錫(14%)、骨の成分であるリンは全く検出されなかった。

  有名な「エミーレの鐘」の説話はどうなるのだろう。多くの人の考えとは違い、この伝説は20世紀以前のどんな記録にも見られない。「三国遺事」には「景徳(キョンドク)王が聖徳王のために銅12万斤で鐘を鋳造したが、完成を見られなかったので、息子の恵恭(ヘゴン)王が771年に完成させ奉徳(ポンドク)寺に安置した」という内容だけだ。神鐘を記述した高麗・朝鮮時代の文献からも赤んぼうの犠牲を暗示する句節は発見されていない。

  この伝説が書かれた最も古い記録は米国人ホーマー・ハルバートが1906年に書いた「大韓帝国滅亡史」(The Passing of Korea)であるものと推定される。ハルバートは「朝鮮の人々は子供の犠牲で作られた鐘で“エミ、エミーレ(Emmi、Emmille)”という声が聞こえるという。この言葉は“ママ、ママのため”という意味だ」と正確に記述している。しかしこの本によれば問題の鐘のある所は慶州ではなくソウルの真ん中だ。

  聖徳大王神鐘がすなわちエミーレの鐘だという主張は1920年代以降、本格的に登場し、ハム・セフンの親日戯曲「オミルレ鐘」(1942)の素材として使われる。このためエミーレの鐘伝説は韓民族の遺産をさげすむ日本の作り話という主張が提起されたこともあった。一方、歴史小説家ムン・ヨン氏は中国・唐にも類似の説話があることを指摘する。人命を軽視する苛政に対する告発のメッセージが人身供養の説話に変わったという推定だ。それだけの役事なら血は分からなくても涙は数えきれなく流れたはずだから、鐘の音が恨むようにもの悲しく聞こえたのも当たり前のことだ。

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