松林寺 大邱・八公山(パルコンサン)にある名刹

2013年6月10日月曜日

鹿洞書院再訪

6月1日(土)

2007年以来、6年ぶりに鹿洞書院を訪ねる。七星市場からバスに乗って約1時間。




昨秋、「韓日友好館」というハコモノが出来た。


(2010年10月1日の日記を再掲)
文禄・慶長の役で加藤清正配下の武将・沙也可が投降し、金忠善となったという伝承が現在の鹿洞書院につながっている。ちなみにF先生は沙也可研究会を主宰し、沙也可は阿蘇氏の一人であるという観点から調査を進めている。

小生が大邱を訪ねるようになったのは、宮本徳蔵氏の小説「虎砲記」を読み、金忠善の子孫が金海金氏となり、鹿洞書院を中心とした村に住んでいるという物語に魅かれたことがきっかけだった。
大邱を初めて訪ねたのは、2007年の年末だった。記念館を見せてもらうと、展示の仕方も建物も少々お粗末で、失望したのを思い出す。夏場は日本人が乗った観光バスが止まることもあるそうだし、紀州・雑賀説(神坂次郎氏が提唱)が政治家がらみ(経済と観光)で大手を振り、伝承の検証と史実の探求、現実の子孫たちの思惑とは微妙にずれや歪みをもたらしている。


友好館の展示はなかなか良くできていた。テーマは日韓交流史。壬辰倭乱ではなく、壬辰戦争という言葉を使っていて、訪れる日本人に気をつかっている。沙也可(金忠善)を紹介する3D映画も、CGを使って驚くほどの現代的な映像になっていた。映画の最後に、和歌山の二階俊博代議士が挨拶するのが少々ひっかかった。
彼らの根拠は、雑賀衆→沙也可、朝鮮に鉄砲の技術を伝えた、それだけなのである。





裏山に金忠善の墓が整備されていたので、登ってみる。F先生によれば、せいぜい百数十年前の物だという。
「慕夏堂文集」その他、沙也可=金忠善の資料で、一部しか公開されていないものがまだあるとか。降倭の武将・沙也可とは何者だったのか、決定的な資料はまだ見つかっていない。400年前の人物でも、謎は多い。ましてや古代史となれば、1人1説が可能なのである。

この日は、韓日友好館のボランティア、チェ・イグムさんや、大邱駅地下のコーヒーショップ「Nero」のアルバイトの女性など、大邱の若い人で日本語を話す人に出会う。
しかし、ここ数年、大邱における日本語学習熱は下がり、皆が中国語を習うのだという。
そういえば、定宿のユニオンホテルも中国人の団体客で騒がしかった。尖閣問題や反日騒動の影響で日本へ行く観光客が減り、大邱にまで(失礼)大挙して中国人が押し寄せていた。

最後の夜は、F先生と昨夜のShinjuku近くの居酒屋へ。女将さん、大邱には珍しい、控えめな挙措の美人であった。
 

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