松林寺 大邱・八公山(パルコンサン)にある名刹

2014年3月12日水曜日

2014年2月17日(月)

鶴城公園(蔚山倭城)に登ってみる。
蔚山城での攻防は、朝鮮出兵の中でも特筆すべき激戦だった。
太和江に近く、市内を見下ろす小山である。規模は小さいが、見晴らしは良い。
400年前は、蔚山湾の最奥に位置しており、城下には船を着けることができたという。
昨日行った西生浦倭城から北に15キロの拠点である。慶長2年(1597)11月から、加藤清正、毛利秀元、浅野幸長の軍勢が、40日間の突貫工事で城を築いた。
蔚山城に向かった明・朝鮮連合軍は約57000人(朝鮮軍は12500人)。
急襲に遭い、日本軍は籠城戦に追い込まれる。籠城兵力は約10000人というが、この小さな島のような山に、そんなに多数の人間が本当に生存できたのだろうか?
せいぜい1000人くらいしか籠城できないような狭さなのだが…。








連日の攻城戦で、日本軍は城から無数の銃弾を浴びせて明・朝鮮軍を撃退し、大きな損害を与えた。しかし籠城戦で食料の備蓄は乏しく、冬の寒さと飢えにより、悲惨な状態となる。兵たちは馬を殺して飢えを凌いだ。落城は時間の問題となり、12月29日、城を明け渡せば和睦するとの使者が現れた。降倭将の岡本越後守(沙也加?)と田原七左衛門だったという。
慶長3年(1598)1月3日、小早川秀秋、黒田長正、長宗我部元親らの援軍約13000人が到着し、激しい戦闘の末、明・朝鮮連合軍は撤退した。敗北した明軍は20000人近い兵を失った。








慶長3年9月下旬から10月初めにかけても、明・朝鮮連合軍約30000人、日本軍10000人の規模で、同様の攻防戦、籠城戦が行われ、明・朝鮮軍は攻めきれずに撤退した。
8月18日、豊臣秀吉が死去。加藤清正は11月18日に蔚山城から撤退、帰国した。





現在の鶴城公園は市内の平凡な公園である。中高年の市民が散歩をしたり、韓国のどの公園にもある遊具で体操をしたりしている。


蔚山から高速バスで馬山に向かう。

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