松林寺 大邱・八公山(パルコンサン)にある名刹

2015年4月7日火曜日

浦項の日本人街(2)

1923年から1945年まで、瀬戸内の漁師たちが浦項に住むようになり、この日本人街を形成した。料亭、旅館、回船問屋、学校、郵便局、病院、デパートなど、最盛期には千人ちかくの日本人が住んでいたという。

「しかし、この時期に建てられた日本家屋は、都市開発の過程で撤去または老朽化が進み、韓国民族にとって悲しい歴史が消失してしまうという危機に瀕した。これを受け、浦項市は家屋を補修・修理することにより、日本の強占期時代における日本人の豊かな暮らし振りを再現し、それとは反対に、日本に搾取され、貧しい生活を強いられていたわが民族のことを忘れないための教育の場にする目的として「九龍浦近代文化歴史通り」を造成した」

役所としてはこのようなタテマエが必要なのだろうが、

「2011年3月から始められた整備事業により、全長457m・27棟の建物を補修して誕生した「九龍浦近代文化歴史通り」は、2012年12月、韓国国土海洋部が主管する「第2回大韓民国景観大賞」最優秀賞を受賞し、都心活性化事業のモデルケースに選ばれた」

日本では伊勢の「おかげ横丁」のように観光用にレトロな街を作るのが流行っているが、韓国でもこのようにかつての日本人街を再発見・再活用しようという動きがあり、浦項はその成功例だろう。大邱でも、少しだけ、始まっている。


公園に登ると、九龍浦の港が一望に見える。
公園の真ん中に大きな碑があり、肝心な部分がセメントで塗りつぶされている。

「この碑は十河弥三郎を讃えて建てられた頌徳碑である。十河弥三郎は日本の強占期、九龍浦の防波堤の築造や道路開設などに係わった人物である。日本人たちは彼の業績を讃えるために日本から珪化木を輸入し、強占地から解放される前の1944年に頌徳碑を建てたという。敗戦により日本人たちが日本へ引き上げた後、九龍浦の住民たちがセメントで碑を塗りつぶしたので、現在碑文の内容は知られていない」

70年もの間、このように目隠しをされたままの碑は気の毒である。いっそのこと早めに取り壊したほうがすっきりしただろうに、さすがにそれは十河弥三郎を知っている韓国人の長老たちが反対したためなのだろうか。


港に面した通りは蟹の看板が立ち並び、カニ通りと呼ばれて観光客で賑わっている。客引きしているアジュンマの食堂に入り、海鮮ビビンバを食べた。1万5000ウォンでいかにも観光地の値段だが、味はまあまあ美味也。バンチャン(おかず)などはお粗末だった。
初めて訪れた浦項は、製鉄工場の景観を含めて、山あり海あり、なかなか好印象で、違う季節にも再訪したいと思った。蟹を食べるならきっと冬のほうがいいだろう。

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